IN DEEPから R3 1/12 「最後の審判・・・」

日常の価値観の瞬間的変転の中での違和感。そして私の中の「死霊」

本文途中からですが・・

この『死霊』第7章は「最後の審判」というタイトルなのですが、ここに大変に「好きな概念」が出てきます。

「食べられたものが、食べたものを弾劾する」

のです。

まず、イエス・キリストが、イエス自身が食事として食べた「ガリラヤ湖の魚」に弾劾されます。

その次に、ブッダが「食べた豆」に弾劾されます。

豆ですよ、豆。お釈迦様が、死んだ豆に怒られている。

長い描写ですが、それぞれ短く抜粋させていただいて締めさせていただこうと思います。

突然に埴谷さんの死霊を思い出したのは、今の世の中の状態に「おかしい」と違和感を持ち続けていられる礎が、この時の埴谷さんの言葉との出会いにあったからかもしれないと思ったからでした。

この番組を見た時、私は三十代の始めで、すでに表現もやめていて、「世の中ってつまらない」と思い始めていた頃でした。

しかし、この埴谷さんの番組を見て「元気をもらった」のですね。もしかすると自分は存在していないかもしれない、なんていう考えは人生の中で最もエキサイティングな考えのひとつだったため、この頃から実に元気になりましたね。

それまではお酒は夜飲むものでしたが、この頃から昼から飲み始めました(ダメになってるじゃん)。

埴谷さんの主張は、つきめていえば、

「存在しない存在するもの」

を語るというものでした。

私たちは自分が存在していると思っていますが、埴谷さんは「それは不快だ」と。

ずっと続いていた違和感。そして、この2年で強まった違和感…。もしかすると、このパンデミックの期間は、多くの方々が、これまでにない「新しい価値観を獲得できる時期」でもあるような気がしてきました。

存在しない自分とまではいわなくとも、「自分が気づいていなかった自分」を認識するという方法が見つかるというような期間といいますか。

この「最後の審判」は、先ほどの 動画ですと、このあたりの前後で埴谷さんが述べています。

埴輪雄高「死霊」 第七章「最後の審判」より
いいかな、イエス、これほどお前に食われた魚の悲哀についてばかりこだわりつづけた俺についていっておくと、さて、お前はテベリアの海ともキンネテレの海ともまたゲネサレ湖とも呼ばれたあのガリラヤ湖のきらめき光った眩しい水面を憶えているかな。

お前が復活後、三度目にガラリヤ湖に現れたとき、なおまだ飢えているお前は「食べものはあるか」とまず訊き、「いいえ」と答えられて、こう指示したのだ。

お前は、シモン・ペテロ達に、船の右がわに網を打て、と指示して、おお、憶えているかな、百五十三匹もの大漁の魚をとらせたのだ。

……俺たちがはいった大きな網が引き上げられて、跳ねあがっている俺達の重さと多さを眺めて満足な喜悦を現しているお前の残忍な顔を、水上の宙に跳ねあがった数瞬の俺は、永遠に忘れることはできないのだ。俺が跳ねあがった水上は数知れぬものが写っていながら、それらが忽ちに消え去ってしまうところの虚無の鏡だったのだ。

おお、ここまでいえば、お前もやっと憶いだせるかな。つまり、その大漁の魚を朝食として炭火の上にのせて焼き、パンとともにお前達が食べつくしたとき、お前が最後に食べたその最も大きな一匹こそがほかならぬこの俺だったのだ。

……おお、イエス、その顔をあげてみよ、お前の「ガラリヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ。

おお、イエス、イエスよ。自覚してくれ。過誤の人類史を正してくれ。

埴輪雄高「死霊」 第七章「最後の審判」より
おお、サッカ、お前は、生きとし生けるものを殺してはならぬ、と繰り返し述べながら、その殺してならぬ生きとして生けるもののなかに、いいかな、他を食わずに、ひたすら食われるだけのこの俺達、お前達の大地の上に緑なす「生の造化主たる生」をこそひたすらもたらした俺達草木を含めていなかったのだ。

にもかかわらず、イエスから自分の肉と血であるとすぐ真ん前でいわれていることをその全身全霊をこめて喜ぶ卓上のパンと葡萄酒の愚かな心に似て、お前が食物から受ける前に必ずするところの合掌をただに施与者への感謝の表示としてばかりではなく、これからやがて食べられる俺達へのあらかじめの悲痛切実な哀悼をこめた心の奥底からの詫びと許しをまごころこめて乞うこの上なく真摯誠実な標しだと思い誤って、例えば、いま俺の両側にいる米も麻の実も、そうしたお前を心の底から許してしまったのだ。

だが、サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅い歯と歯のあいだで俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。