森信三先生の言葉 22~全一学は人によりそのニュアンスは・・

  全一学は人によりそのニュアンスはもとより、凡てがそれぞれ違うべきで、唯一の水晶体みたいなものがあるとでも思ったら誤り、これより大なるはないのです。
 ですから、もしも私の死後に、このような考え違いをする人があったらと思うと、死ぬにも死なれん思いですね。

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 ですから全一学は、これまでの西洋哲学と比べたら、在野的な色調を二、三割近く帯びるともいえましょう。少なくとも、学者とそれ以外の人との間に境界線だけは引かないというのが特徴といってよいでしょう。

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 宗教とは、第一に我執という枠がはずれること。第二には、現実界そのものがハッキリと見えるようになるということ。第三には、この二度とない人生を、力強く生きる原動力となること。真の宗教には、少なくともこうしたものが無くてはならぬでしょう。
 この内第二の現実の明察という「察」の力を養うのが、また宗教の力でなくてはならないのに、多くの宗教家は、この点についてあまり言わないようですね。

森信三先生の言葉 23~今後われわれ日本人は・・

 今後われわれ日本人は、つねに脚下の現実をふまえつつ、マクロ(極大)とミクロ(極小)を切り結んで生きていかねばならないのでしょうか。つねに一眼は「国際情勢」を、そして他の一眼は内展せられて、つねに「われ如何に生きるべきか」を考えることが大事でしょうね。

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 読書が、われわれの人生に対する意義は一口で言ったら結局、「心の食物」という言葉がもっともよく当たると思うのです。ところが「心の食物」という以上、それは深くわれわれの心に沁み透って、力を与えてくれるものでなくてはならぬでしょう。ですから「心の食物」は必ずしも読書に限られるわけではありません。いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生のいろいろな経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。したがってその意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付き難いと言えましょう。否、気付かないだけですめばまだしも、かような重大な意味を持つ深刻な人生経験というものは、もしその意味を見出してこれを生かすことができなければ、時には自他を傷つける結果になるとも言えましょう。ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らねばかえって人々を損なうようなものです。

 

森信三先生の言葉 24~同様に人生の深刻切実な経験も・・・

 同様に人生の深刻切実な経験も、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果となりましょう。こういうしだいですから、読書はわれわれの生活中、最も重要なるものの一つであり、ある意味では、人間生活の内面的な釣合いの上からは、読書がその半ばを占むべきだとさえ言えましょう。すなわちわれわれの人間生活は、その半ばこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。

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 いかなる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として謹んでお受けをするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心の腰がすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわです。したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、また真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。

森信三先生の言葉 25~友情の最も深く感ぜられる・・・

 友情の最も深く感ぜられるのは、何といっても道を同じくし、師を共にする同門の友との間柄でしょう。というのも、そのときそこで語り合う問題は、決して単なる世間話ではなくて、常に人生の問題であり、道の問題であるからであります。したがってまたそうした友人と会うことは、自分の生き方の上にも、常に新たなる刺激と力とを与えられるわけであります。

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 そもそも友人関係というものは、師弟の関係を仮に縦の関係とすれば、まさに横の関係ともいうべきであって、師から受けるのとは、またおのずから違った面を教えられるものであります。たとえば師弟の関係から絶対的なものを教わるとすれば、友人関係からは、人生の相対的方面を教えられるとも言えましょう。

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 哲学においても、真の絶対は、相対の面を含んで初めて真の絶対であるといわれるように、この真理は、師弟朋友というような、人生におけるもっとも具体的な関係の上にも当てはまるかと思うのです。すなわち師弟の道は、それが絶対の道として、大切なことは申すまでもありませんが、しかし単なる師弟の道だけで、その上さらに友人の道が正しく履み行えないというのでは、その人の人柄の上に、まだどこか至らないところのあることを示すものと言えましょう。
 かように考えてきますと、友人関係というものは、ある意味では師弟関係以上に難しいとも言えましょう。すなわち真の友人関係には、ある意味で師弟関係の仕上げとも言うべき面があるからです。

森信三先生の言葉 26~真の叡智とは、自己を打ち越えた・・・

 真の叡智とは、自己を打ち越えた深みから射してくる光であって、私たちはこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知り得ないのであります。そうしてかような反省知、自覚知を深めていくことによってわれわれは、万有の間における自己の真の位置を知り、そこに自らの行くべき大道を見出すことができるのであります。
 かくしてわれわれ人間が、天地宇宙の間に生まれ出た一微小存在としての人間の道は、このように、天地を背景として初めて真に明らかとなるのであり、さらには天地の大道と合するに至って、初めて真の落ち着きを得るわけであります。

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 人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。単に受け身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もありません。

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 自分が躬をもって処理し、解決したことのみが、真に自分の力となる。そしてかような事柄と事柄との間に、内面的な脈略のあることが分かり出したとき、そこに人格的統一もできるというものです。

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 死後にも、その人の精神が生きて、人々を動かすようでなければなりません。それには、生きている間、おもいきり自己に徹して生きる外ないでしょう。

                                        

森信三先生の言葉 27~人間は生まれると同時に・・・

 人間は生まれると同時に、自覚の始まるわけではない。人間が真の自覚を発するのは、人生の三分の一どころか二分の一あたりまで生きないと、できないことのようです。そしてここに、人間の根本的な有限性があるわけです。
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  焼き芋は、火が通らないとふっくらと焼けない。人間も苦労しないと「アク」が抜けません。同一のものでも、苦労して得たのではないと、その物の真の値打ちは分かりません。

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 自分の「血」と「育ち」における卑しさが自分の言動のどこに、いかなる形態をとって現れているかということを、まず知らねばならぬと思うのです。
 実際に気品というものは、人間の修養上、最大の難物と言ってよいからです。それ以外の事柄は、大体生涯をかければ
必ずできるものですが、この気品という問題だけは、容易にそうとは言えないのです。

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 つまり人間というものは、教えの光に照らされなければ、たとえ幾年、否、時としては十数年の永きに交わっても、この点に対する深い自覚には至り難いものであります。けだし教えの光に照らされるということは、つまり自分の醜さが分かり出すということだからです。

森信三先生の言葉 28~人間の真の強さというものは・・

 人間の真の強さというものは、人生のどん底から立ち上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から立ち上がってきた人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう。

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 死生の悟りと言っても別にはなくて、お互いにこの生ある間を、真に命がけで生きるという外ないわけであります。これ先に生に徹することが、やがてまた死生を超える道だと申したゆえんであります。そして死ぬとは結局、生まれる以前の故郷へ帰ることだといえましょう。ですからわれわれは、この世にある間は自分の全力を挙げてこの世の務めを尽くす。これやがてこの世を去る唯一の秘訣でありましょう。いざという時に心残りのない道、これ真に安んじて死に得る唯一の道であります。

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 人間はこの肉体をもっている限りは、煩悩の徹底的根切は不可能である。そしてこの一事が、身根に徹して分かることこそ真の救いといってよかろう。

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 総じてその実質が同じ程度の偉大さであるならば、その人の社会的位置が低ければ低いほど、後世におけるその感化影響の力は、大きいと言えましょう。
 世間の人々は、多くはこの道理を知らないで、ただ位置さえ高ければ、それだけその影響力も広く及ぶように考えがちですが、それはただ物事の上面だけを見ているにすぎないのです。

森信三先生の言葉 29~神は至高至平であって、神の天秤は・・・

 神は至高至平であって、神の天秤は何人においても例外なく平衡です。髪の天秤の公平さが形の上に現れたものが、すなわち「世の中は正直」ということになるわけです。神の公平と世の中の正直とは、実は別ものではないと思うのです。

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 総じて精神的な鍛練というものは、肉体的なものを足場にしてでないと、本当には入りにくいものです。たとえば精神的な忍耐力は、肉体上の忍耐力を足場として、初めて真に身につくものです。

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 真の一流者と、人生を艱難の中に過ごしてきた人の考えとは、その結論において多くは相通ずる。唯、中心の同じ円にも、大小の別のあるように、ただ理論の上に深浅の差あるのみです。ゆえ古老の言に傾聴する謙虚さを持たぬ学者は、取るに足らないのです。