森信三先生の言葉 18~今あなた方に手近なところで申せば・・・

 今あなた方に手近なところで申せば、たとえばご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相した後を、人知れず浄めておくとか。あるいは教室を最後に出る場合、部屋の戸締りをして出るとか、すべての人の眼に立たぬところで、なるべく人に気づかれないように善根を積むということであります。即ち人間が人知れず抱く心持や、人知れぬところで行う善行こそ、その人の気品のもつ「ゆかしさ」をつくる基盤になるわけでありまして、そのためには、この「報いを求めぬ」工夫ということが、一つの大切な心掛けと申せましょう。

                                    〇

 そもそも物事というものは、すべて比較をやめたとき、絶対無上となるのであります。総じて善悪とか優劣などということは、みな比較から起ることでありまして、もし全然比較をしなかったとしたら、すべてがそのままに絶対無上となるわけであります。

                                    〇

 この世ではまず一人を得ることが大事でしょうね。つまり一人の同志を得ることがいかに大へんなのかを知るべきでしょう。それにはあくまで一対一の呼応を大切にすべきで、次いでハガキの活用が不可欠でしょう。

                                    〇

 神とは宇宙的バランスの根底ともいえましょう。人間も金が溜まったり、まして名声が揚がったりすると、その反面どうもマイナスが始まるようですね。可成りな人でも、その人から匂いとか香りというものが無くなるようですね。

 

森信三先生の言葉 17~人間は、現在自分の受けつつある不幸を、・・・

 人間は、現在自分の受けつつある不幸を、単に自分一人が嘗めさせられていると考えるか、それともこうした不幸によって、自分の甘え心を取り去るために神の深い計らいが働いていると気づくかにより、その人の一生にとって、実に大きな別れ目になると思うのであります。同時にまた人間は、現在自分の受けつつある不幸が、じつは神の深い御心だということが分かり出しますと、これまで自分ひとりが不幸に嘆き悲しんでいると考えていたのに、この広い世間には、自分と同様の悲しみを抱いている人や、さらにはより深い悲しみを持っている人の少なくないことが、次第に見えてくるのであります。

                                            〇

 
人間の心の清らかさは、それが深まってきますと、ある意味では「報いを求めぬ心」ともなるようです。ところでこの「報いを求めぬ心」ということは、コトバで申せばただの一口ですみますが、なかなか至難なことであります。ではこの「報いを求めぬ」境涯に到るには、一体どうしたらよいかと申しますと、一つの方法は、全く人の知らない処で、なるべく多く善根を積む工夫をするということでしょう。

森信三先生の言葉 16~コトバを慎むということは、修養の・・

 コトバを慎むということは、修養の第一歩であると共に、また実にその終わりといってもよいでしょう。否、コトバを慎むということは、ある意味からは修養の極致といってもよいでしょう。さればこそ古人も「辞を修めることによって誠が立つ」といわれたゆえんであります。

                          〇

 人間の修養の眼目は、これを内面からいえば、「心を浄める」ということであり、これを現れた処から申せば、まずコトバを慎むということが、その中心を為すといってもよいでしょう。心を浄めるとは、すなわち誠ということでしょうが、しかもコトバを慎むということは、実はそのまま誠に到る道なのであります。

                          〇

 人間の人柄というものは、大体その人が、他人から呼ばれた際、この「ハイ」という返事の仕方一つで、大体の見当はつくと云えましょう。それと申すのも、その人の名前を呼ぶということが、その人の全人格に対する呼びかけであるように、これに対する「ハイ」という返事も、またなるほどコトバとしては、唯の一言ですが、これまた、全人格の発露でなくてはならぬからであります。

森信三先生の言葉 15~われわれの命というものは、祖先以来・・

 われわれの命というものは、祖先以来無量の生命の重畳であり、その結果と申さねばなりません。実際わたくしたちが、針の先で突いて出る程度の血の中にも、実は過去無量世の祖先の血が圧縮せられて重畳しているわけであります。それ故このように考えて来ますと、わたくしどもは自分の生まれる以前の「業」を、わが身の内に宿しているということは、必ずしもこれを非科学的だとか、迷信といって片づけられないものがあるわけであります。

                             〇

 この「業」という考えは、われわれがこの人の世において受ける諸々の悩みや苦しみに対して、何とかして逃げようとか免れようと焦りもがくのではなくて、わが身の受けるべきものは、そのすべてを自業自得として受けるという態度であります。即ちこの態度は、悩みや苦しみを回避するというのでもなければ、さりとてまた単にそれに泣き溺れてしまうのでもありません。そうではなくて、自分の果たすべき「業」はそれを果たして了うまでは、どこまでもこれを甘受し受け容れて行くという態度であります。否、自己の果たすべき「業」はたとえ生涯をかけても、あくまでこれを果たして行こうとする雄々しい人生態度ともいえましょう。それは例えば柿の渋を抜くようなものです。つまりこの「業」という考えに立つ時わたくしたちは、いろいろな悩みや苦しみに出合う毎に、一歩一歩自分のアクが抜けていくのだと考えることが出来るのであります。

森信三先生の言葉 14~不幸というものは一面からは・・

 不幸というものは一面からは確かに損失といってよいわけですが、しかも天は至公至平でありまして、こちらで損失を起こしたら、他の方面で必ずその償いをしてくれるものであります。しかしながらこの点は、これを信ずる者にのみわかる事柄でありまして、その為に信じられない者は、たとえ償われていても、その償われていることがわからないのであります。

                                 〇
“森信三先生の言葉 14~不幸というものは一面からは・・” の続きを読む

森信三先生の言葉 13~なにゆえ師は、人生における光・・

 なにゆえ師は、人生における光であり力なのでしょうか。思うに師とは、真理が一人の生きた人格を通して具現せられた存在だからであります。ですから、もし人間がただ単に書物だけを読んで、生きた一人の師に就くことをしなかったならば、その人が如何に「道」といい「真理」といいましても、畢竟(ひっきょう)じてそれは未だ机上の論を離れない処があって、真に身を以て体験した道の真趣には至り得ないといえましょう。
 ですから古来卓れた人々で、師を持たなかったという人はなく、また師を尊敬しなかった人はないのであります。それというのも師を尊敬するということは、結局は「道」を尊敬するということであり、否、「道」そのものを最も深く、その具体現実の相において把握することだからであります。

                                〇

 真の学問とは、自分の気質根性を改める力のあるものでなくてはなりません。そこまで行かないものは皆ニセの学門です。ところが、自分の気質を改めるということは、実に至難中の難事であって、生涯をかけての大事業です。お互い人間というものは、死ぬまでにはスーッと透き通るように、キレイになって死にたいものです。屍体の方は後に残った人が浄めてくれますが、心の方は自分で浄めて死なねばなりません。

森信三先生の言葉 12~人間の偉さというものは、その人が・・

 人間の偉さというものは、その人がいかなる志を立て、それを如何ほどまで実現するかによって決まるとも言えましょう。否、さらに突きつめて申せば、そもそもわれわれ人間の志というものは、その人が真に心中に希うだけは、必ず実現するものだともいえましょう。すなわち一人の人間が、真にその心中深く念じて止まぬ事柄というものは、必ずやいつかは、何らかの形で実現せられるものであります。

                           〇

 われわれ人間は必ず死ぬものであり、人生は永遠に二度とふたたび繰り返すことの出来ないものだということは、古来かって一人も例外のない人生の最大鉄則であります。この人生の最大鉄則に向かって、如何にわが身を処して行くかが終生の課題です。

                           〇
“森信三先生の言葉 12~人間の偉さというものは、その人が・・” の続きを読む

森信三先生の言葉 10~われわれ人間というものは、すべて・・・

 われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的にあたえられた事柄に対しては、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け容れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります、否、われわれは、かく自己に対して必然的にあたえられた事柄については、一人好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩をすすめて、これを「天命」として謹んでお受けをするということが大切だと思うのです。同時にかくしてはじめてわれわれは、真に絶対的態度に立つことが出来ると思うのです。

                               〇

 わたしの考えでは、われわれ人間は、自分がここに人間として生をうけたこに対して、多少なりとも感謝の念の起きない間は、真に人生を生きるものとは言い難いと思うのです。実際この地上の生物の数は、人間のそれと比べていかに多いか、実に測りがたいことであります。しかもお互いにそれらの何かでもなくて、ここに人間としての「生」を与えられたわけですが、しかもそれが、何らわが力によらないことに思い及べば、何人も享け難い人身を受けたことに対して、しみじみと感謝のこころが湧き出るはずであります。

                               〇
“森信三先生の言葉 10~われわれ人間というものは、すべて・・・” の続きを読む