不幸というものは一面からは確かに損失といってよいわけですが、しかも天は至公至平でありまして、こちらで損失を起こしたら、他の方面で必ずその償いをしてくれるものであります。しかしながらこの点は、これを信ずる者にのみわかる事柄でありまして、その為に信じられない者は、たとえ償われていても、その償われていることがわからないのであります。
森信三先生の言葉 15~われわれの命というものは、祖先以来・・
われわれの命というものは、祖先以来無量の生命の重畳であり、その結果と申さねばなりません。実際わたくしたちが、針の先で突いて出る程度の血の中にも、実は過去無量世の祖先の血が圧縮せられて重畳しているわけであります。それ故このように考えて来ますと、わたくしどもは自分の生まれる以前の「業」を、わが身の内に宿しているということは、必ずしもこれを非科学的だとか、迷信といって片づけられないものがあるわけであります。
〇
この「業」という考えは、われわれがこの人の世において受ける諸々の悩みや苦しみに対して、何とかして逃げようとか免れようと焦りもがくのではなくて、わが身の受けるべきものは、そのすべてを自業自得として受けるという態度であります。即ちこの態度は、悩みや苦しみを回避するというのでもなければ、さりとてまた単にそれに泣き溺れてしまうのでもありません。そうではなくて、自分の果たすべき「業」はそれを果たして了うまでは、どこまでもこれを甘受し受け容れて行くという態度であります。否、自己の果たすべき「業」はたとえ生涯をかけても、あくまでこれを果たして行こうとする雄々しい人生態度ともいえましょう。それは例えば柿の渋を抜くようなものです。つまりこの「業」という考えに立つ時わたくしたちは、いろいろな悩みや苦しみに出合う毎に、一歩一歩自分のアクが抜けていくのだと考えることが出来るのであります。
森信三先生の言葉 16~コトバを慎むということは、修養の・・
コトバを慎むということは、修養の第一歩であると共に、また実にその終わりといってもよいでしょう。否、コトバを慎むということは、ある意味からは修養の極致といってもよいでしょう。さればこそ古人も「辞を修めることによって誠が立つ」といわれたゆえんであります。
〇
人間の修養の眼目は、これを内面からいえば、「心を浄める」ということであり、これを現れた処から申せば、まずコトバを慎むということが、その中心を為すといってもよいでしょう。心を浄めるとは、すなわち誠ということでしょうが、しかもコトバを慎むということは、実はそのまま誠に到る道なのであります。
〇
人間の人柄というものは、大体その人が、他人から呼ばれた際、この「ハイ」という返事の仕方一つで、大体の見当はつくと云えましょう。それと申すのも、その人の名前を呼ぶということが、その人の全人格に対する呼びかけであるように、これに対する「ハイ」という返事も、またなるほどコトバとしては、唯の一言ですが、これまた、全人格の発露でなくてはならぬからであります。
森信三先生の言葉 17~人間は、現在自分の受けつつある不幸を、・・・
人間は、現在自分の受けつつある不幸を、単に自分一人が嘗めさせられていると考えるか、それともこうした不幸によって、自分の甘え心を取り去るために神の深い計らいが働いていると気づくかにより、その人の一生にとって、実に大きな別れ目になると思うのであります。同時にまた人間は、現在自分の受けつつある不幸が、じつは神の深い御心だということが分かり出しますと、これまで自分ひとりが不幸に嘆き悲しんでいると考えていたのに、この広い世間には、自分と同様の悲しみを抱いている人や、さらにはより深い悲しみを持っている人の少なくないことが、次第に見えてくるのであります。
〇
人間の心の清らかさは、それが深まってきますと、ある意味では「報いを求めぬ心」ともなるようです。ところでこの「報いを求めぬ心」ということは、コトバで申せばただの一口ですみますが、なかなか至難なことであります。ではこの「報いを求めぬ」境涯に到るには、一体どうしたらよいかと申しますと、一つの方法は、全く人の知らない処で、なるべく多く善根を積む工夫をするということでしょう。
森信三先生の言葉 18~今あなた方に手近なところで申せば・・・
今あなた方に手近なところで申せば、たとえばご不浄の中に落ちている紙屑の類を拾って、容器の中へ入れておくとか、さらには人の粗相した後を、人知れず浄めておくとか。あるいは教室を最後に出る場合、部屋の戸締りをして出るとか、すべての人の眼に立たぬところで、なるべく人に気づかれないように善根を積むということであります。即ち人間が人知れず抱く心持や、人知れぬところで行う善行こそ、その人の気品のもつ「ゆかしさ」をつくる基盤になるわけでありまして、そのためには、この「報いを求めぬ」工夫ということが、一つの大切な心掛けと申せましょう。
〇
そもそも物事というものは、すべて比較をやめたとき、絶対無上となるのであります。総じて善悪とか優劣などということは、みな比較から起ることでありまして、もし全然比較をしなかったとしたら、すべてがそのままに絶対無上となるわけであります。
〇
この世ではまず一人を得ることが大事でしょうね。つまり一人の同志を得ることがいかに大へんなのかを知るべきでしょう。それにはあくまで一対一の呼応を大切にすべきで、次いでハガキの活用が不可欠でしょう。
〇
神とは宇宙的バランスの根底ともいえましょう。人間も金が溜まったり、まして名声が揚がったりすると、その反面どうもマイナスが始まるようですね。可成りな人でも、その人から匂いとか香りというものが無くなるようですね。
森信三先生の言葉 19~悟りとか救いとか解脱などというものは・・・
悟りとか救いとか解脱などというものは、それらの美しい言葉がコッパミジンに吹っ飛んで、現実そのものが露堂々と見えてくることではないですかね。
先人が全身の血を流して掴んだものを、紋切型なコトバで、振りまわしている程度では、相去ることまさに千万里でしょうね。
〇
男・女は人格としては平等です。しかし役目や受け持ちは違うということです。女子教育は年限が問題で、女子大というものは三年制にすべかりしと思いますね。
戦後ジャーナリズムに乗せられて、婚期を無視する女性が増えつつありますが、その誤りが今日すでに深刻に想い知らされかけたようですね。
〇
一切のイデオロギーにひっかからないで、唯ありのままに現実そのものが見えるというのが叡智で、すべてはここから始まるのです。政治も教育も固形化した公式論ではダメだということです。
森信三先生の言葉 20~現代における菩薩行とは何か・・
現代における菩薩行とは何かーをもっと考えなくちゃいけませんが、おそらく宗教家の中には少ないでしょうね。そして無名の一般庶民の中に人知れず菩薩行を行なっている人が多いのではないのでしょうか。近頃のわたくしには、そんなに思われてなりません。
〇
愛情とはまず相手のためにどれほど忍べるかということでしょう。そしてやがてそれがかえって深い心の幸せと感じられるのでしょう。抽象的には愛情とは相手を包むことともいえましょうが、実感のない抽象論に過ぎません。
〇
今日母親たる者の第一歩は、ご主人に対しての「ハイ」の返事ー。まずこの一つを徹底して続けることでしょう。これこそ無我への第一歩です。とにかく生きた「世の中の道理を噛みしめる」ことでしょうナ。
〇
「これだけは絶対にしない」ということが、自己が確立する上でも最低基盤線といってよいでしょう。ですから人間としてこの最低基盤先の確保、これが大事です。
森信三先生の言葉 21~「世の中に両方良いことはない」・・
「世の中に両方良いことはない」つまりすべては一長一短だということで、この点が真にわかったら宗教はいらぬともいえましょう。ところが大抵の人は何とかして両方とも良いようにしようともがくわけです。どちらか一方を思い切って断念するか、それとも両方基準を下げて調節するしかないと落ち着けないでしょう。
〇
真にすぐれた師というものは、門弟たちを遇するのに、単なる門弟扱いをしないものです。すなわち卓れた師というものは、つねにその門弟の人々を、共に歩むものとして扱って、決して相手を見下ろすということをしないものであります。
それは同じ道を数歩遅れてくる者という考えがその根底にあるからです。
〇
そのそも人がその言葉を慎み、一つの行をもおろそかにしないということは、その根本においてその人が、この人生に対して志すところが高く、かつ深いところから発するのだと云えましょう。何故わたしたちは、一見些細とも見える自分の一言一行を慎まねばならぬのでしょうか。これ実に内に偉大なる志を蔵する故だといってよいでしょう。
〇
わたくしのやり方はすべてマンダラ方式です。いわば具体的な多中心主義ともいえますかね。そしてその多中心が、またお互い繋がり合っているわけです。つまり単なる中心集中主義ではないのです。これが「開かれたるコンミューンへ」ともなるわけです。つまり具体的な動的多元論ですね。