11月11日 岩戸開きから 12月12日 弥勒の日まで その3
沖縄から戻っての11月17日、久しぶりに東京からのお二人の女性と食事することになっていました。
日本の真実について検証を進め、執筆活動をともに進めるお二人です。
「紙の温度」に行きたいとの要望がありお連れすることになりました。紙の温度は日本でも有数の紙がある場所とのこと。丁度熱田神宮の南隣にあるのです。 “11月11日 岩戸開きから 12月12日 弥勒の日まで その3” の続きを読む
11月11日 岩戸開きから 12月12日 弥勒の日まで その1
岩戸開きといわれる11月11日近くからこの12月12日弥勒の日と言われる日まで、まことにあわただしい神惟ら(かんながら)体験をいただきました。
11月3日 文化の日に町内の白龍神社さんの補修工事完了の祝典がありました。その白龍神社さんが皮切りとなりました。
11月10日 テネモスミーティング名古屋 IN 沖縄出発の日です。 “11月11日 岩戸開きから 12月12日 弥勒の日まで その1” の続きを読む
真理の光 8 追伸 「受容」の幅
「受容」の幅について、先生と生徒の真理探究について、「受容」の幅の差が、関係を継続させると書きました。敵さえも「受容」したイエスについては、すべての人との「受容」の幅の差(ギャップ)が詰まることがないのでイエスに多くの人々が2000年もの間惹かれているのです。
それはお釈迦様も空海も道元も親鸞も日蓮も宮沢賢治も良寛もその他の偉人達も同じように人々を長い間ひきつけてやまない理由です。「受容」の大きさが、人々を大きくひきつけるエネルギーとなっ ています。「受容」すれば「0」になるからです。
すべてを「受容」すれば完全となり イエスになります。逆に「0」になれないので人間として生まれたともいえるのでしょうか。「0」になれない理由は「分離感」にあります。「分離感」を無くすことが、すべてを「受容」することになるようです。
真理の光 その9 一体全体と意識エネルギー
私達の感知する現実世界は一体全体でひとつの生命であることはよく耳にします。そのことと、意識はエネルギーであり光子でもあることの証明が科学的になされました。いつも暮れになりますと送られてくる風天さんの冊子にその記述を見ることができましたので掲載させていただきました。
すべてのモノはかかわりあって存在していることの証明が上の項目でなされています。そして意識はバイオフォトンという光子であることも。光子ですから意識を向ければ(意識をすれば)電子が動きます。そして思ったとおりになります。
「意識すればそこに量子が偏在する。意識は光子(バイオフォトン)で エネルギー、 波であり物質(粒)である。人は自分の見ているものすべてに影響を与え変化させる。何かを見るだけでその何かの分子を変え、原子を変えエネルギーを変えるほどの力を発している。素粒子は人間が意識していないときは波(エネルギー)で人間が意識したときだけ粒(物質)になっている」
真理法則の科学的証明です。現実はよいわるいを抜きにして幻想の世界なのでしょうか。
日本の今を考える #43
真理の光 その8 圧の差が変化の原点
ある夕方家内が言いました。
「この間テレビで ガイアの夜明けで なんだかテネモスさんと同じように感じたから とっておいたの。」
いつもよくわかりませんが。
「ガイアの夜明け」というテレビ番組で気になることをしていたので、それが何かテネモスさんと関係がある気がしたので、録画しましたと、翻訳すれば、そういうことです。
テレビ番組でその以前の録画は有料で見れますが普段は家庭の録画かDVDにして身内に紹介するくらいのことです。せっかくなので録画を見てみました。
魚をアメリカに空輸するとどうしても鮮度が落ちます。それをなんとか鮮度をなるべく落とさずに空輸するにはどうすればいいかという技術のを開発したエバートロンという名前の会社の製品の紹介でした。(冷凍せずにデス)
ある箱の中に2時間くらい入れただけで、いつものように空輸しても鮮度がほとんど落ちないままです。そのある箱の空間にはAMバンドの周波数が流されるようです。(空間の側には金属が貼ってあります)
突然の理解
以前に聞いた言葉でその時には理解できなかった言葉。そのような言葉がなんでもないときに突然に理解にいたる不思議な感覚があります。
「人生とは心をきれいにすること」
「仕事は掃除すること。掃除だけしていればいいです。」
「自然は陰陽の法則ですが、人間だけは類友です。」
人間の中の見えない心は現象を通じて理解できます。最近よく言われる言葉は性格は顔に、感情は声に、本音は仕草に、美意識はつめになどなど出るといわれています。見えない意識が現象に現れます。最近のテレビは知識のオンパレードです。らしいです。
糸川先生は「無知は罪」といわれました。でも同時に世界中を旅し、世界中に友達ができ、どんなことでも知っているはずの先生はご自分のことを「自分の知っていることは0に等しい。」といわれたようです。先生の「無知は罪」の「知」とは何でしょうか。私達の思い込み、経済や知識偏重の心がその真の「知」に大きな壁を立ててしまっているのかもしれません。