神の使者から奇跡の道へ その81~中庸な信念というものはない

「中庸な信念というものはない」

一般的に良いこと、とか正義とか、道徳とか
いうものについても、それを守ると言うことは
その人の信念になりますね。

平等感もまた信念。

でもどの信念をとっても、自分が下す決断であって、
その決断の一つひとつを指図する力がありますね。

中庸はゼロですから力はないですね。
あるとしたらしいて言えば中庸力。

どんな決断も分離した考えの中からのものですから、
罪悪と言えて、ですから決断の後には必ず
苦しみが生じます。

分離していないという無罪性の後には逆に必ず
自由が生じるようです。

もし分離していないのならば。相手の自己が自分の
知っている自分の自己ですから、どうして相手を
憎むことなどできるのでしょうか。
特別な者たちだけが敵を持つことができます。

比較とは自我による仕組みに違いなく、愛はいかなる
比較もしませんね。

特別性は常に比較します。

「愛とは延長である」

「中庸な信念というものはない」

眼精疲労のこと

お客様からご質問があったり、
お知り合いからも、最近眼精疲労が
凄くてというお話があったりしました。

生活や仕事の環境が変化して、
パソコンやスマホを見る機会が増大。
そのことで目が疲れたり、だんだん
見えづらくなったりしてきますね。

きょうのお客様へのお返事です。
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神の使者から奇跡の道へ その82~神の強さを自らの内に・・・

「神の強さを自らの内に自覚している者たちは
戦いというものを考えることさえできない」

すぐ戦って勝とうとしてしまったり、
すぐに裁こうとしがちですね。
過ちも、善も悪も、正も邪もないのに。

信じられませんが、ほんとうは完全無欠であるすべての人は
そのようなことを考えますと、自分の完全無欠性を
失うだけですね。

戦って勝ち取れるものは、ただの肉体に関するものだけ。

自分が一切を持っていることを知っている者は、
制限することなど追及しないで、肉体が提供するものに
価値を見出すことはありえませんね。

父の目的を共有し、それを自分のものと知る者たちには
一体何が与えられているのでしょうか。

きっと彼らには何も不足していないし、いかなる
種類の悲しみも考えられないのでしょう。

そして彼らの愛する光のみが自覚され、愛のみが
彼らの上に輝く。
それが彼らの過去であり、現在であり、未来であり
このすべてが同一で、永遠に完全で、全一に共有されている。

さらに彼らは自分たちの幸福がどのような変化にも
みまわれないと知っているのでしょうか。

「神の強さを自らの内に自覚している者たちは
戦いというものを考えることさえできない」

神の使者から奇跡の道へ その83~特別性とは、自分以外の・・

「特別性とは、自分以外のあらゆる人に対する
信頼の欠如である」

特別性と言えば、全ての人のこと。
全ての人を判断してしまう心は、
人に対する信頼の欠如。?

「小声でささやかれた気に入らない一言や、
都合の悪い状況や予期せぬ出来事だけで、
自分の世界が動転し、混沌の中に投げ込まれて
しまうほど、傷つきやすく、攻撃されやすい
存在はあなたではない」

真理はそんな脆弱ではありえませんね。

人の中のキリストは微動だにしないし、
彼は自分の愛するものを見て、
それが自分自身だと知っていますね。

そして地上のすべてのものについての
識別法となるのは、単に、
「それはなんのためなのか」という問いのようです。

全てのことやものは自分へのプレゼントだと
確信さえ出来れば。。

もうすぐ。

「特別性とは、自分以外のあらゆる人に対する
信頼の欠如である」