霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 10 エピローグ 十戒と十二因縁 

長いエピローグとなりました。

私たちが生かされる指針としては古代イスラエルでは
モーセがシナイ山で賜ったヤハゥエの十戒と
日本ではなじみの十二因縁があります。

十戒は読めばできていない事ばかりでなんだか
恥ずかしい感じですが、少しでも守りたいものと
思います。

仏教では因縁が今の人生になっていると説きます。
ですからその因縁から起きる事柄や意識の変化こそ
自分がさらに登る大切なことともいっています。
ただやはり目の前の嘘っぽい現象からのお話に過ぎませんが。

まずは十戒です。

ペディアから
“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 10 エピローグ 十戒と十二因縁 ” の続きを読む

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 9 エピローグ 自分とは何か

空海のレイラインを訪ねてと題した旅が
終わりました。

何かが終わった感が迫ります。

そしてまた何かが新たに始まる予感です。

自分とは何か、あなたとは何かと問われましたら、
自分はずべて、そしてあなたもすべてとお答えいたします。

それぞれが意識があって、その意識が創造する世界が
目の前に広がります。しかしそれはまるで嘘のような世界です。
人の意識がとらえるこの嘘のような世界とはまったく相いれない
絶対的な一点から常時吹き上がる無限とも言ってよい膨大なエネルギーが
あなたの正体でしょうか。

言葉は空しいものですが、そして言葉が出ると
それはまた嘘のようなことですが、あえて言葉なら

吹き上がる無限の「絶対感謝」

“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 9 エピローグ 自分とは何か” の続きを読む

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 8 エピローグ あなたの魂はどこに

釈迦は語ります。

「無明を去れ!」

無明ってなんでしょうか。
知らないってことを知りなさいという意味でしょうか?

そして毒杯をうろたえもせずあおいだソクラテスは言います。
「無知の知」または「不知の知」

それもまた釈迦と同じように知らないってことに気付けというのでしょうか。

何を?

人として今生に出て、様々を体験し人としての喜び悲しみ
怒り不安感動幸せなどなどを感じます。
肉体がすべてと大抵は思います。
そして「幸せになりたい」と誰でもが思うことでしょう。

ですが人間が感じる幸せってなんなのでしょう。

おいしいものを食べ、何の不安もなく、住む家があり、
毎日が変化に飛びワクワクして生きる楽しみがある。
そのことなのでしょうか?
そして肉体の健康に恵まれ、何の恐れもなく死に向かう。

そのことなのでしょうか?

あなたは一体なんなのでしょう。

人生に於ける数々の霊性の体験は今生における宝物です。
なぜかといえば人は決して一度きりの人生ではないことを
その体験は告げていると確信させるものだからです。

人間ですからとてもつらい体験が皆様にもあることでしょう。
しかしその体験の客体を憎むことなく、輝きをもって
受容し主体客体ともに赦しを持って通過する時、人はさらに
反転し輝き、次なる天啓を受けることとなるのでしょうか。

人間的な喜びや悲しみ怒りに翻弄されている間は無明を去ったり
無知を知ることは出来ないのかもしれません。

自分とは何か、この現実とは何かが分かった時に
いかなる時もいつも幸せに満ちいつも喜んでいる自分(分け御霊)に
驚くことでしょう。

人生という旅は続いています。

      つづく・・

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 7 エピローグ 幾度もの人生

人間は何故生まれ出たのかはとても大切なテーマ。

それを追いかけ今の人生の意味を数々の体験によって
知ります。
今の出生の条件はお人によってさまざまです。

仏道では今の人生を過去世においての
「因縁」から作ってきた結果と説きます。
過去出してきた意識とそれに起因する因縁の結果と
今を説明しています。
“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 7 エピローグ 幾度もの人生” の続きを読む

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 6 阿刀家の神社 夜の京都「阿刀神社」へ

やっとのことで京都に着きました。
それでも名神のインターから30分。
ナビの場所にまったくなく、皆さんで必死に
探します。

そこは車で入れる場所ではなく、広い道路に
車を停めて徒歩での参拝となります。

人がすれ違うこともできないほどの狭い道を
行きますと、そこに「阿刀神社」が。

小さな神社は真っ暗です。
ですがしっかりと石の礎で出来た祠です。

石はイスラエルの象徴。
“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 6 阿刀家の神社 夜の京都「阿刀神社」へ” の続きを読む

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 5 神戸再度山

いよいよ今回の空海のレイラインの最終点である
神戸再度山の大龍寺です。

これでこのラインは閉じます。
なんてことはなくてただ人が意識を持って
参詣するだけなのですが、達成感が満ち溢れます。

神戸の街を抜けてすぐに迫る山を登っていきます。
もう夕暮れが迫っていました。
急がないと参詣は無理。
到着時には山のことなのでもう薄暗い感じです。

先に到着した金沢のTさんが石上神社に来ることが
できなかった意味がここにきてわかりました。

先に到着してお寺のお坊さんに、もうすぐ仲間が5人
到着するのでと話し、寺の階段や境内を照明を付けてくださいと
お願いしていただいていました。
機転が利き、またとてもやさしいことに感謝です。

おかげで山への急な長い階段を上ることができました。


“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 5 神戸再度山” の続きを読む

霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 4 淡路最北端の石上神社を訪ねる

さて空海の剣山ですが、剣山に今も秘宝があるか
どうかはわかりません。
ただこの国が神武天皇によって建国された
前2660年はイザヤ一行が淡路に着いた年と
離れてはいません。

実はその以前にもこのシオンの国を古代イスラエル人は
幾万人も四国の南から上陸し剣山に住まいしたことが
分かっています。
古代イスラエルの人々は南と北の民族に明らかなように
一緒になっては離れ違う方向を目指すという習わしのような
ことがあったようです。
剣山山頂に国を構えましたが離れる民族は下の祖谷へと
移住しその人たちは深い谷を挟んでイスラエルの地と同様に
山の切り立った山の中腹に住まいしています。

このような唄があります。

EPSON MFP image

“霊性の旅 淡路から神戸へ ~空海のレイラインの終点を訪ねて 4 淡路最北端の石上神社を訪ねる” の続きを読む