随想 伊路波村から123〜いのちを継ぐ

急に映画に行きたくなった金曜日の夜、
一緒に行くはずだった美佐子さんは、
激しい娘と息子のやり取りを聞いていて、疲れたのか、
寝てしまっていた。

一人で出かけた、万博サテライト会場跡地にある
109映画館。
結構人が入っている。
若い人たちや、年配の人たちが混ざっている。
「男たちの大和」

竹内結子さんの旦那さんが主演級。
内田という名前だった。

実は四日市のビデオの内田さんが「よかった!」って
メールを打ってみえたので、是非にと思っていた。
内田さんの「よかった!」にははずれがないので。

僕は戦後っ子なので、戦争は知らない。
でも鹿児島の特攻基地だった知覧に行って、
ほとんど母を思って死んでいった特攻隊員の
遺書には、胸が詰まった。

「大和」は沖縄を救うべく出撃したのだが、
ほとんど玉砕を全員が覚悟した戦いだった。

いのちをかけるような経験がないのだから、
もし自分だったらと思ってしまう。

母子、恋人、兄弟の関係が浮かび上がる。
いのちをかけるということ。
何のために死ぬのか。

ギリギリのライフボートのような疑似体験を思う。
やっぱり哀れさに心が揺れる。
いのちをつないだ息子が死んでいく。

その母もまた子を産むときは、誰でもいのちをかけたのだ。
映画の原作になった話の主人公の内田さんは
実は四日市の人だったとか。
ビデオの内田さんが言っていた。

戦後生き残り、11人の親のない子を引き取って育てた人。

「戦死した人のために、唯一ワシができることだから。」
娘がお父さんの内田さんの言葉を告げる。

その翌日土曜日。
また映画に行くことになった。
今度は夕食つきの映画行き。

美佐子さんの希望の映画「単騎、千里を走る」

高倉健さん主演の日中合作映画。

「親より早く死なないことが、
何よりの親孝行」
なのに健さんの息子は親より先に逝ってしまう。

妻の死後、寡黙になって漁村に居ついた
健さんと、東京に住む息子との連絡は10年なかった。
父と息子の心の葛藤が、健さんの演技に解けていく。

単純なストーリーに寡黙な健さんは無言で演技する。
その無言の姿が凄い。震える。

実はその日の午前に、末の娘の卒論の
発表会に出向いた。招待があったので。
行ってみると参加保護者は私ひとり。(笑)

視聴覚教室で娘の発表を加えて4人の方の
発表を聞いた。
若いのだけれど、えらいなあって感じる。
内容はともあれ、卒論をみんな英語で書くんだから、
それだけで尊敬します。

娘の発表は「父子関係が子どもの自己開示に及ぼす影響」
なかなか興味あった。

父の権威を縦軸に、会話の高低を横軸にしたゾーンでは、
もちろん高会話低権威のゾーンの父親に
子どもは自己開示をするのは、たてた仮説どうり。
それより娘は父親のロマンに尊敬心をもち、
息子は物質的成功にそれをより多くもつという
風説が気になった。

人は自分の逆を求めるものか。(笑)

健さんに戻って、
会話がまったくない父子が、
短い残された命の時間の中で、再会することもなく、
心が溶け合う。

それは時間やお金に関係なく、息子の願いを
かなえてやろうとして何もわからない中国へでかけた
父親の勇気と愛がきっかけとなった。

親よりは早く死なないように、そんなシナリオどうりで
あれば命を継ぐという流れは、自然のうちに果たせるのだろうか。
涙の量は「単騎、千里を走る」が多かった。
嗚咽しそうになった。

その場面はどこでしょう。(笑)
両方の映画、是非って薦めたい。

今朝月曜日、末の娘はカナダーメキシコ一ヶ月の旅に発った。

朝出勤時、「パパ、ハグハグ」って言った。

時は流れて  020830

朝通勤の車中で信号待ちをしていた。

目の前の太平通り(国道)の端を左側通行であるく
ひとりの中年女性が目に入った。
車道を歩いているのだ。

白いブラウスに黄色いスカート姿。
うつろな表情で黙々とそしてふらふらと歩いている。

ものすごいスピードで女性のヨコを通過する車の群れ。
彼女にとって法律も恥じらいもそして生きる目的も
何も意味をなさないかのよう。

それでも活かす力は車道の一番端を歩かせている。
胸が一杯になった。

彼女に何があったのだろうか。
今を捨てたいわけは何なのだろう。

何故そのシーンを自分は見たのだろうか。
行き過ぎればあったか、なかったかのようなこと。

それでも想いだすもっと以前の過去のシーンは過酷なもの。
自分に関わることだったらあまりにも重大なことなのに。
彼女の家庭はどんなだろう。

どんな想いで家族は暮らしているのだろう。
替わってくださっているあなたよ、どうぞいのちを生きてください。
祈らずにはいられない。

時は流れて、

今の幸いを大きく受け止めた朝でした。

随想 伊路波村から124〜暮れのつぶやき

暮れのつぶやき

最近気になったフレーズについて。
白峰聖鵬さん「人間は聞いた情報のような人間になる。」

これを聞いて「人間は食べたもののような人間になる」を
思い出しました。

21日は坂田さんと昼食忘年会。
数々の言葉が飛び出す。

「契約は信頼の証」と言う言葉を書いてきたある本人さん。
他人が言えば素晴らしい誉め言葉だけれど、
自分が言ったらただの自慢。(笑)

でもそのおはがきを受け取って、自分の慢心をいましめた
達人もいます。

「食育は教育に優る」
そうですね毎日朝礼で社訓や、立派なお話をしても
あんまり人間に変化はありません。

早起き会で素晴らしいフレーズを唱和するような
組織の大リーダーが毒になるようなものを作る会社の
社長だったり。(笑)

食べ物を変えたほうが早いとか。
だから教育より食育。

「急に儲けた人は急に落ちる。
あんまり儲けないほうがいい。
いいことを黙々と他人に尽くす人がいい。」

すこしなぐさめにはなります。

「恩人のことを忘れず、忘れない行為を
続けることが大切。」

森先生のお墓参りを、年の暮れの12月にかかさず
続ける坂田ご夫妻。
「森先生にお会いしなかったら、
今のわしはないんじゃけん。
墓は1-2分。
でも続けることが大事だから。」
偉大な方にしてこの心。
私たちの小ささを知ります。

「寒いですね、暑いですね」を口にだすような
人間は芯が通ってない。

「寒いですね」って声をかけられたら、
「厳しいですね」と答えなさい、は森信三先生。

わたくしだったら「すずしいですね」で人が笑う。

雪が降っています。

随想 伊路波村から125~権藤さんという人

地元の神明社の元旦祭が1日の10時から
毎年開催されます。

それが終わると 直来(なおらい)が社務所であります。

小さなまちの神社ですが 20人くらいの方が
それぞれの町内の氏子代表として参加されます。

神社の宮内で参拝が行われるまさにその瞬間
私の隣の人のケイタイがけたたましく鳴りました。
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随想 伊路波村から126〜ディープインパクト

ディープインパクト
「いっぺん寝て、そのころ起きるから」
といって8時ごろ寝入った昨夜。

隣室の「ディープインパクトが・・・・・」
というテレビ音に始まるのかと飛び起きた。

隣室では家内がめずらしくNHKのドキュメント
を見ていた。

無敗のまま三冠馬となったディープインパクトの
ドキュメントだった。
この番組が終わったあとNHKはフランスの
凱旋門賞をライブ中継することになっていた。

それで早寝してその時間に起きようと思ったのだ。
フランスのロンシャン競馬場。
なつかしさに心が躍る。

土木の仕事を辞して、名古屋での建築関連の
今の仕事に変わる、変わり目の時、ヨーロッパを
旅した。長男が生まれたばっかりだった。

学生時代から大好きだった競馬。
開催のない競馬場を見ることだけでも
嬉しかった。

パリでの旅行中の自由日、一人でロンシャン競馬場に
行って、午後から終了までいた。

馬券の買い方もわからない。
なんせフランス人は英語を話さない。
もっともこちらもできないけれど、
読むことくらいはすこしはできるのに、
フランス語ばかりなのだ。

それで幾度か馬券を購入して、
自分のえらんだ馬が優勝したりしたのに、
よくわからないまま帰ってしまった。
それでもよかった。
パドックでは盛装した紳士や貴婦人が
木の下に集っていた。
なんとも優雅な風景。

なんだかその頃ゲートがなかったような気さえしている。
ただ係りの人がヒモでスタートラインを
作ってヒモを離してスタートだったような。
ハッキリしない記憶。

直線をただ走るだけのレースもあったような。
いよいよ凱旋門賞が始まる。
八頭立て、
ディープインパクトの馬番は1番
で枠番は2番、これでわかった、
さっぱりフランスの競馬がわからなかったわけ。

馬番と枠番が日本と異なってまったく関係ないのだ。
32年前の疑問が解けた。

またそのことをその間知ろうともしなっかった自分が
おかしくなった。

レースが始まった。
武豊騎手はほんとにうまく乗っている。
父親である武邦騎手とそっくりの乗り方。
直線、日本からの応援もきっと届いたろうけれど、
ディープをマークした2頭に差されて3着だった。

武豊騎手はさすがに悔しかったのか、
インタビューアーの質問にまともに答えれない。

調教師の池江さんはディープインパクトの
国際レース再挑戦をテレビカメラの前で誓った。
なつかしいロンシャン競馬場が一時間
ずっと画面にあった。

私は、家内よりも生まれたての長男にもの凄く会いたくなった

あの20代後半のヨーロッパへの旅を思い出していた。

随想 伊路波村から127~社員さん旅立つ

連休明けの7日、社員さんのお父さんから
電話があった。

「あの・・・Tが4日の朝急に亡くなりまして、
6日に密葬を済ませました。」
あまりのことに絶句。

「もうお医者さんもびっくりするくらいだったんです。」
80歳を超えてみえるだろうお父さんが、
気丈に話す。

「何にもできなくて、ほんとにすみません・・・。
お父さんお母さんもだいじになすってください・・・。」
電話口のむこうで嗚咽が漏れた。

1ヶ月を過ぎる入院。
だけれどまさかこんなにはかなく逝ってしまわれるなんて。
ほんとに一体どうなっているんだろう。

彼は独身、56歳に今年の11月になるところだった。
楽しいことも少なかっただろうに。

15年間病弱で定期的に幾度か入退院を
繰り返していたけれど、とてもまじめで、
毎月のお給料日の日報には必ず、

「厳しい時代ですが、今月もお給料をいただけました。
ありがとうございます。」
と必ず書いてみえた。

特殊な性格の故か、社員さんにあんまり好かれて
いたわけではないけれど、黙々と偽りなく、効率的に
働く人でした。

あなた様によって多くの人が学びをいただきました。
私は社員さんが現役で亡くなるという経験を持ちました。
大きな体験です。

どうぞもうしっかりしなくていいですよ。

ゆっくりお休みください。

そんな風にお伝えします。

なくなる少し前に撮らせていただいた
ケイタイの写真。
すこしでも、よくなりますように、元気にまた
仕事に出てこられますように、
お祈りに持って行こうと思った写真が、
胸のポケットにまだあったのです。

随想 伊路波村から128~たまに

たまに
おととい、ひさしぶりに飲み会に参加。

経営者のみなさんのお話を聴いて、
たまには現実もいいなあと思う。(笑)

こちらから出る言葉も確認できた。
ちょっと気になる男性がいて、
だいたい一月に一度お話を聴きに出かける。
この前は3人で聞くところが、
一人が急にこられなくなって、
二人で聞いた。

あとで大須へ行って、お食事した。
お目当ての「健福」さんが、27日まで
お休みで、万松寺通りを西へ抜けた。
何年ぶりかのこと。

若者と外国の人たちが目に付いた。
また次のお目当てのところ「御幸亭」さんが
まだ開店前。
それで「キッチン ニュートーキョー」へ。

お食事をご一緒していただいた方は
もう9年ほど前にあって以来の知人だけれど、
二人だけでのお食事は始めて。

子どもさんは、おなかの中にみえるころから
知っている。(笑)
やっぱり二人だけでの話しや時間は
貴重だと気づかせていただく。
不思議な方と思っていたけれど、
やっぱり見ている・・・人だった。
この方はハープで一世風靡したKさん。

ケイタイが鳴って、兄が名古屋駅に到着するので、
大須でお別れした。

これから以後、ともに学べることは幸いと感じた。

その後名古屋駅で兄と会った。
「楽天」さんで二度目の夕食。(笑)
二年ぶりだろうか。
今年で66歳。

「あいさつ回りだけで半年かかるわ。」と笑う。
それから自分の働いている今度の職場の
優秀性を難しい言葉で続ける。

久々に兄貴らしさに触れる。
幼いとき、ともに言い知れぬ苦労をした二人だ。

父親代わりの兄貴の背中は丸く、
大変な思いをたくさんしょって・・・と、
後姿を見送る。

ありがとうお兄ちゃん。

たまに・・・の多かった一日。

たまにが、いいようです。

彼は11年後の2019年1月に旅立っている。

随想 伊路波村から129~みんな聞いている

「お世話になったから、
もうそのお礼ということで、
いいじゃないですか。」

少しもケイタイにでないという
お客さまへの対応を社員さんと
お話した。

すこし残った代金のことだ。
そんな話を取り交わしたあと、
彼はふたたび電話した。

そしたらケイタイに出られたお客さま。
2ヶ月ぶりだそうだ、出られたのは。

「あんな話をまるで聴いてみえたようですね。
境目がないですね、いのちって。」と声かけ。

そしたらその社員さん。
「実はこんな話があるんです。」と口をきった。

彼の友人のお話。
その友人は引っ越すからと、
古くからあった室内の「ゴムの木」を
もうほかそうと家族と話し合っていた。

そしたらその「ゴムの木」にみるみる元気が
なくなって、枯れそうになった。
これは大変ということで、鉢を大きくしたり、
好物のビールやミルクをあげたり
したら元気になった。

そんなことがあって「ちゃんとおまえも連れていくよ。」
って宣言したら、もうそのまま元気だったそうな。

「そうですよね、だから植物も机も
あらゆるものって繋がってますね。
そしてみんな聞いているから、
なるだけいい言葉を使いたいものですね。」
そんな今朝の会話だった。

自戒も込めていた。(笑)