2303「無知の知1」2021.4.16  自部で自分を自分する から

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今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年03月06日を紹介します

私の中の「666ヤハウェ」の浮上は「無知の知」と共に

https://ameblo.jp/riyanmichaki/entry-12660028157.html

こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

みなさん、「鬼が仏の早変わり」という諺(ことわざ)をご存知でしょうか。

鬼滅ワンフーの私といたしましてはスルーできない言葉ですよ。

どういう意味かと申しますと、「陰では鬼のような振舞いをする凶悪な人が、普段はシレーっと仏の皮を被って、人前では善人ぶっている」ということを表す諺です。

そんなことを踏まえまして。

さて、鬼才カリスマ講師、澤野大樹(さわの・たいじゅ)さんの座右の銘のひとつに「無知の知」があります。「無知の知」は、今から2400年も昔に、ソクラテスが提唱した哲学です。

「私はまだ何も知らないのだということを知る」または、「自分がまだ何も知らないのだということを知れ」これが「無知の知」です。

この「無知の知」については、講演会でも何度も学んで参りました。大切なことですので、今回、澤野氏が過去の文章に大幅に加筆する形で文章を書き下ろしてくださいました。

(2回に分けてお届けいたします。)

人の世の常として、人は何かを知った時、何かに気づいた時、優越感や全能感を抱いてしまいます。「私は真実を知ってしまった」「私は気づいてしまった」「私は覚醒した」と。

すると人々はそれを他者との優位性と勘違いし、それを武器として、「私たち選ばれた賢者たちだけがこの真実を共有しているのだ」と、きわめて傲慢になっていきます。

このような精神状態について、私はそれを「全知の無知」、つまり「私はすべてを知ってしまったのだと過信してしまう無知さ」と表現しています。

この「全知の無知」はいわば無敵状態を作り出します。それまでの謙虚な姿勢は失せ、半ば躁状態となり“ハイ”となります。

私はこれまでそのような人をたくさん見てきました。「全知の無知」は人をただちに増上慢にさせる魔力を持っています。多くの知識を得ることは非常に大切なことですし、人格形成や人徳の陶冶(とうや)には欠かせないことです。

何か特別なひとつの事実に気づいたり知ったとき、「私がこの事実をみんなに広めなくては!」と、使命感に駆られることもあるかと思います。本源的にはそれはそれで悪いことではないのでしょう。しかしそこには「罠」が標準装備されています。「罠」というと聞こえが悪いですが、正確に申し上げるならばヤハウェによる「セキュリティ」なのです。

そんな「セキュリティ」(罠)は、三次元物質的な「知識の増大」に際して、もれなくセットとしてぴったり付随してきます。

知識とか叡智とか直観とかひらめきとかというものは、じつはその者の「人格形成を伴った知識や学識の総量」に均衡し見合ったものしかもたらされないのです。

剣道をやったことの無い人に、知られざる剣道の極意の裏技はもたらされませんし、ギターに触ったことの無い人に、スウィープピッキングの真髄はもたらされませんよね。

何千回、何万回と反復継続を繰り返し、下積みを繰り返したのちに、さらにその分野での才能がある程度あった場合にそういった極意というものはふと自然に舞い降りるものであって、インスタントに、机上の理論からは決して会得できない。

そしてここで重要なのは、そのようにしてもたらされた「極意」というものは、じつは本人は気づかない場合が多いわけです。多くは他者から指摘されて初めて気づくものです。

世界トップクラスのギタリストへの雑誌インタビューなどでそういったことが時々見受けられます。

インタビュアーが、「どうやったらそのような音が出せるのか解説してもらえませんか」と質問すると、困惑した表情で、「え!?これは何か特別なの?普通に弾いただけなんだけど」「無意識で弾いたからどうやってとか聞かれてもわからないや」ここの部分なのですよね。

まだ初心者の人や、素人や部外者や一般の人から見れば、それは驚愕すべき技術であったり表現であったりするものが、当の本人はまったくもって無意識でそれをやっていたりします。でもその無意識でできてしまうというのは、その人に才能がありさらにそのことを寝食を忘れて、無限回数の反復練習をした結果なのですよね。

ここで重要なのは、「寝る間を惜しんで」ではなく「寝食を忘れて」というところです。

そこに血の滲む「努力」など皆無であったということなのです。本人は楽しくて時間を忘れて夢中になってやっていただけなのです。

やりたくないことを力を込めて苦しみながら耐えながらやるというのが「努力」です。努力量と才能の開花にはさしたる相関関係はありません。才能のある者が夢中になって時間を忘れて、楽しくて楽しくてしかたがない数千時間をいかに経たか、これがその分野でトップになるならないの違いでしょう。

つまり私が何を言いたいのかと申しますと、これらを経ずに「一日でギターの達人になれる裏技」とやらを得て、そして舞い上がって「私はすべてを知ってしまった」と思ったら、

それは壮大な勘違いであるということなのですね。

物事にはじつは「近道」というものはないんです。でもじつは近道はあるんです。でもその「近道」というものは、気の遠くなるようなほどの反復継続の訓練、練習を延々と繰り返した人「だけ」にもたらされるのです。

「楽」をするための画期的な発見というものは、傍から見たら「死ぬほどの努力」と映るであろう、しかし本人には楽しいその恍惚の時間というものをどれだけ過ごしてきたか、これにかかっているのだと思います。

自分が夢中になったことと、秘められた才能が合致するかしないかは、それは「運命」としかいえないでしょう。しかしそれを万に一つでも合致させてしまうこともじつは才能の中に含まれているのです。

人の寿命を「100年」だと仮定しましょう。生後1日の赤ちゃんはそのたった1日が「100年」分なのです。そしてその後、人生を生きていく中で、いわゆる「1日」というものが

希釈されていくんです。だから物事を習得するのであれば、とにかくできるだけ若いうちが望ましいわけです。

人生100年ということは3万6500日です。生後1日の赤ちゃんは「3万6500分の3万6500日」です。エナジー満タンフルパワーですよ。そこからカウントダウンしていくんです。

そして100歳になると1日は「3万6500分の1日」となるのです。1日の「濃さ」がまるで違うのですよ。これはじつに重大なことを意味しているのです。

これは逆に言えば、生後1日で亡くなった赤ちゃんと、100歳で亡くなった人は、じつはまったく等価値、同量の「生命」(いのち)をまっとうしていたのだ、ということになります。

「ひとつ」の生命はすべての人に平等にあり、その価値は時間の長短とは無関係だということになります。人の生き死に、そしてその価値、意味というものは、人生の物理的な「長短」で測るものではありません。

わが子を幼くして亡くした人もたくさんおられるでしょう。でも、その子が生まれてくれたおかげでどれだけ幸せを感じ、どれだけ考えさせられ、どれだけ人生が変わったか?

それだけでもうその子は100年を生きたことと同じなのです。ならばその子は親なんかとっくに追い抜いて、100年の人生をあっという間に駆け抜けた「先輩」なんですよ。ならばいつまでも死んだ子の年を数えて嘆き続けちゃいけない。その子はじつは先駆者であり先輩なのですよ。

また、楽器や舞踊といった伝統芸能には「稽古始め」「習い事始め」がありますね。それは「6歳6月6日」(666)とされています。

言語が安定し、自我意識が定着してくるその時から、まさに「稽古始め」とされているわけです。だから小学校の入学も6歳からとされています。

誰もが共通して持っている「ひとつの人生」というもの。これが一般的には「時間」で解釈されています。長生きすることだけが美徳であり、早世することは悪徳であるとする奇妙で偏った考え方がこの世の中の通念として蔓延っています。

つまり「時間」というのは幻想に過ぎず、本当はその生命の持っている質であり、量であり、コンテンツにこそ意味があったのだということ。しかしこのようなことを隠蔽し封印してきた者たちがいます。彼らは人々に「時間」という幻想で拘束してきました。本来、時間というものは本人の意識の持ちようによって、いかようにもすることができるのです。

最高に楽しいコンサートの2時間はあっという間に過ぎ去ります。しかし、違反者免停講習の2時間は死ぬほどの苦痛になります。どちらも同じ2時間です。

つまり「時間」など、本人の意識の持ち様如何によって、長くもなれば短くもなるのです。

時計の針の動きと私の意識の中の時間は、じつは関係がなかったということに気づくことが重要です。しかし私たちはそれにずっと縛られてきました。「計器」が定めた時間に従わされてきたわけです。

この世の人類の意識を支配、そして操作するということは、じつは「時間」を支配し、操作するということなのです。相対的な時間を絶対的なものとして信じ込まされてきたのです。 だからカバールDSは、私たちにこう言ってきました。

「人生は一度きりだから、楽しまなきゃ損だぞ」

「刹那な毎日を送れ」

「おまえはひとりだ、寂しいひとりだ」

「人生の深い意義など考えるだけ無駄だぞ」

「来世なんか無いぞ、だからとにかく楽しめ」

「死ぬまで消費しろ」

「隣のヤツと自分を見比べろ」

「目先の損得だけで動け」

「神なんかいないぞ、どんどん堕落して楽しめ」

「死んだら損だぞ、長生きこそが最上の価値だ」

「人生の意味など無い、肉体の生き長らえにだけ傾注しろ」

「死ぬまでの間に勝ち組になることだけが美徳だ」

「来世などという不確実なものを考慮などするな!」

「堕落しろ!放蕩に耽(ふけ)ろ!」

こうして私たちは目に見えぬ敵との無為無益な戦いをずっと強いられてきたわけです。しかも「限られた時間」という枠内でですよ。

さて、ここで言う「堕落」とは何だと思いますか?この「堕落」こそが「全知の無知」のことなのです。

自らの無知を忘れさせ、己の全能性を過信し誇らせること。「限られた時間」というのは

時間の信任性に裏打ちされた「ムラ社会」のことで、私たちはその外に存在している「ハラ(原=大自然)の世界」を知らされることなく誰もが苦難の人生が当たり前だと思わされてきました。

自己を誇らせ「私はすべて知っている」と、自信を持たせた。しかしそれはカバールが仕掛けた罠だった。「私はすべてを知ってしまった」と思った瞬間に、大宇宙、ヤハウェから注がれていた叡智は、すべてストップしてしまうからです。

ヤハウェからすれば、「あ、もういいのね、はいわかりましたさよなら」ということです。

これは自らヤハウェとの接続を解除することであり、ヤハウェから己を自ら切り離すことです。こうして自らヤハウェと決別した存在のことを「自分」(自ら分かれた)といいます。これを「ひとつから分かれた」といいます。

かつてこの作業をやってヤハウェから呪われてしまったのが南ユダバビロン系カバールたちです。大宇宙であり己自身でもあるヤハウェを、自ら否定し「新しい神」を創造してしまった。つまり「自分」を創造した。ひとつであるヤハウェとは違う「自分」を創造した。その自分とは「偶像」そのものだった。

彼らはその一件があって以来、地球上の全人類にも同じ境遇を味わわせるために、人々の堕落、つまり「全知の無知」を行き渡らせるための工作活動を繰り広げてきました。

「堕落」というのは「ヤハウェからの訣別」のことです。 つまり、「私はすべてを知ってしまいました、という無知さ」であり、だからゆえ、「私が神(ヤハウェ)に代わってこの世を統べるべきである」という、神、宇宙への冒涜を美徳とするようになったわけです。

だから、「カバール」とみなさん簡単に言われておりますが、カバールを語るためには相当深い学びと理解が必要なのです。

人の前で「10」を話すためには「100」知らなきゃならない。でも「1」しか知らないのに「10」に背伸びしてしまうと、それはじつはバレバレになっているのだということです。

「100」知っている人が話す「10」と、「1」しか知らない人が背伸びして話す「10」は、同じ「10」ではないのです。

物事の習得に「一朝一夕」というものは存在しません。もしそれがあると思ったらそれは間違いです。武道の習得の90%は「雑巾がけ」です。「なんでいつまでも雑巾がけなんですか?

早く技を教えてください」–このような「全知の無知」の有象無象の無礼者にはなってはいけません。

先日、八戸講演会での話しの脱線で、「逆みかん」の話をしましたがまさにそのとおりで、

「内側に有限に閉じた宇宙」である「私」と、「外側に無限に開放された宇宙」である

「私の外側の環境世界」が、同時に多次元的に複合されて共存しているのが私たちが生きているこの「世界」の本当の姿です。

そんな「私」が宇宙(ヤハウェ)に対して「謙虚」であること。「謙虚」であることとは「無知の知」のことです。「私はまだ何も知らないんだ、ということを知る」ということです。

これは己に対して、そして己を取り巻くすべての世界に対して、謙虚であるということです。

この「謙虚」というものは、日常の中でお人好しに立ち居振舞うことではなく、己を卑下し低く徹することでもなく、他人におべんちゃらを並べることでもありません。

「宇宙」に対して素直で純粋で謙虚であるということです。人から嫌われ、友達もひとりもいないような人でも、じつは宇宙に対しては謙虚であるという人はいるのです。「虚心坦懐」という表現もされますが、そのような者はこの社会では多くは生き難いはずです。

有史以来、この世界というものは、そのような本当の意味で謙虚な者が排除され、異端であるとされて排除されてきました。だって「無知の知」を提唱したあのソクラテスですら、

それが発端となって、毒を飲まされて殺されたのですから。

宇宙に対して、そして、ヤハウェに対して謙虚であり続けた者が命を落とさざるを得ないような世の中がこれまで続いてきました。でも、そんな時代は終わりました。これまで世の表舞台に出ることすら許されず、排除され、その存在を封印されてきたサイレント・マジョリティが胸を張って堂々と生きることができる時代になりました。

これまでの時代は、「あなたは右ですか? それとも左ですか?」と選択を迫られました。

しかし、それは虚構の世界だとわかったのです。私たちは右でも左でもなかった。私たちは「下」に封印されていた。

宇宙に対して謙虚に生きること。そして、それが当たり前となる世が来ること。これは、

これまで歴史から抹消され、いなかったことにされてきた無数の「報われなかった魂」たちを呼び起こします。もはや操作された「右か左か」の「多数決」などという幻想システムは機能しない。これからはそこに、封印されていた無数の名も無き、声無き声の魂たち、サイレント・マジョリティたちが呼応し、さらにヤハウェがそこに感応することになります。

目の前にあるはずのこの三次元現実世界には、無限の多次元世界がすでに私たちと同時にいるのだ、という不思議な状態になっているのです。そんな時代に生きるとき、必要となるのは、最新情報でも特ダネ情報でも先取り情報でも、裏情報でもありません。私たち自身がヤハウェそのものであり、すべては最初から「ひとつ」だったというきわめてシンプルなことを発見していくことです。それを発見するためには、何よりも「謙虚さ」しかありません。

もし「私はついに覚醒した」と思ったとしたならば、それは何かの勘違いか、うっかりしただけです。「私は覚醒した」というセリフというのは、「あなたは覚醒からもっとも遠いところにいます」ということを知らせる最大のメッセージなのです。

そのメッセージを自らの口から発しているということは、つまり、あなたの中の内在のヤハウェからの愛そのものなのです。何かを「知った」ということは、次の「まだ知らない世界」への入り口なのです。それは無限に続いていくことになります。つまり、あなたや私の「知った」という気持ちとは、「※現時点では」という注意書きがじつは加わるのです。

「謙虚」とは何か?それは己の達成度、成長度、熟達度などを勝手に己自身で「規定」したり決めたりしないということ。自己の状況に「リミッター」をかけないということ。無限の宇宙に対して副交感神経を優位にすること。身を委ねること。それでいながら「下積み」を夢中で反復継続すること。

「いつまでたっても私はまだ何もわかっちゃいない」ということを無意識に普通に思い続けること。これはできそうでなかなかできない。学校でもまず教えてもらうことはできない。

この他にも決定的なことはあるのだけれども、それはネットでは書かないことが適切だと思います。

(澤野大樹)