心に響く言葉、とか感動で心が震えるとか、何かが語るように響いてきたとかいいますね。聞こえてくるのではなく、内側から溢れるような響きは、そして溢れてくる震えるような思いはどこから来るのでしょうか。
感動しなさい、代金払うからと言われても、どこかの国の「泣き屋」さんとか、映画や舞台の俳優さんならできることかもしれませんが、普通の人にはできないことです。そばの誰かが凄く感動して泣いているのに、しらけたように、自分は何も感じないことがあったり、またその逆もあったり共に共鳴するように感動したりすることもあります。
その違いはどこから来るのでしょうか。
現世に生まれ出させていただいて、いろんな体験をし、感動するポイントがそれぞれの人によって異なる。そういうことってあると感じさせます。でも同じ境遇に育ったような双子さえも異なるようです。
それは何故。?
もし何度か人間を体験していたとしたら、それは可能ですね。
「傷」を意味するギリシャ語のトラウマは、意識の記憶です。今生では体験したことのないことなのに、いつかの生のトラウマからの響きなら納得できます。それならば「響き」という字は納得できます。
故郷からの音。
なつかしい故郷からの音。
みんなそこからここに来ました。
そして今もそこにもいます。
そのなつかしい故郷の思い出が、心を響かせるのでしょうか。
どれだけ赦せばいいのでしょうか。
きっと完成はないのでしょう。
完成があったらここには来させてもらえない。
今ある赦せないことを赦しなさいと、故郷から響いています。そしてまず自分を、思ってしまう自分を赦しなさいと響いてきます。自分の出した意識が全体に届いてしまうから、まず出した意識のいたらなさに恥じ入るばかりの毎日です。