致知出版社 一日一話 読めば心が熱くなる・・ 第二弾 10 「刃で刺されても恨むな。恨みはわが身をも焦がす」 

林 覚乗 南蔵院住職

 長崎県の時津町に、打坂という急勾配の坂があります。そのバス停のそばに建てられている記念碑とお地蔵さんの前では、毎年慰霊の行事が執り行われています。
 昭和二十四年のことです。地元長崎自動車のバスが乗客を乗せて、この坂を上がっていました。坂の半ばに差し掛かったとき、突然エンジンが故障し、バスは止まってしまいました。
 運転手はすぐにブレーキを踏んでエンジンをかけなおそうとしましたが、ブレーキが利かない。補助ブレーキも前身ギアも入りません。三重のトラブルが重なって、バスはずるずると後退し始めたのです。そのバスには、鬼塚道男さんという二十一歳の若い車掌が乗っていました。運転手は大声で、「鬼塚、すぐ飛び降りろ。棒でも石でも何でもいい、車止めに放り込んでくれ!」と指示しました。鬼塚さんはすぐに外へ飛び出し、目につくものを車輪に向かって片っ端から投げ込みました。

 しかしバスは止まりません。乗客のほとんどは、原爆症の治療に通うお年寄りと子どもたちで、脱出はとても不可能です。その間にもバスのスピードはみるみる上がっていきます。坂の下は崖でした。ガードレールもなく落ちればバスは大破します。
 崖まであと十メートル、五メートル・・・。全員が観念したところで、バスは奇跡的に止まりました。

 我に返った運転手は、鬼塚さんがいないことに気づきます。まだ車止めになるものを探しているのかと思い、乗客と一緒に探し始めます。
 ふと、バスの後ろのほうを見て思わず息を呑みました。そこにはなんと後ろ車輪に身を投げ、自ら車止めになっている鬼塚さんの無残な姿があったのです。内臓破裂ですでに息を引き取っていました。
 乗客は鬼塚さんを戸板で運びながら、「この方は仏さんか菩薩さんの生まれ変わりだ」と口々に言い、涙に暮れました。
 貧しい時代で何もしてあげることができず、また、鬼塚さんの死は一部の人にしか語り伝えられなかったため、次第にその出来事は忘れ去られようとしていました。

 二十四年後、乗客の証言に基づいて、その事件が小さな新聞記事になりました。
 それをたまたま目にした長崎自動車の社長は、大変なショックを受けました。「こんな立派な社員がいたことを、われわれ役員が忘れてはいけない」
 そう考えた社長は、その日のうちに役員会を招集し、会社で打坂のそばに記念碑とお地蔵さんを立てて供養することを決めました。
 鬼塚さんの供養祭は、いまでも続いています。