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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年07月21日の記事を紹介します。
「良き人、悪しき人」
今日は、野口嘉則さんのお話をご紹介します。
性善説、性悪説のお話です。
私たちが、どちらに意識を向けるかで、人間関係が劇的に変化することがあります。
<転載開始> 転載元
中学生の女の子の話です。(仮にあきちゃんという名にします)
あきちゃんが小さいころにお母さんが亡くなり、
まもなくお父さんが再婚して、新しいお母さんがやってきました。
そして、その新しいお母さんは、あきちゃんにイジワルをしてくるようになったのです。
そのお母さんは、あきちゃんが話しかけても聞こえないふりをしたり、
あきちゃんのおやつを横取りして食べたり、
あきちゃんに向かって「あなたなんか可愛くない」と言ってきたり・・・
そんな生活が続き、あきちゃんは中学生になりました。
あいかわらず、お母さんからのイジワルは続いたそうです。
そしてあきちゃんには、悩みが一つありました。
それは、中学生になってもおねしょが治らないことです。
ある日、あきちゃんの友だちが家に遊びに来ました。
すると、友だちに向かってお母さんが、こう言ったのです。
「あきちゃんったら、中学生にもなって、おねしょをするんですよ。」
あきちゃんは顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしました。
あきちゃんは心の中で叫びました。
「あの継母(ままはは)のせいで、私の人生はメチャクチャだ。
本当のお母さん、どうして死んでしまったの?」
ところが、その後あきちゃんは、本を読み、考え方が変わり始めました。
自分のことを“被害者”だと思い込んでいることに気づいたのです。
「私はいつも、『あの継母のせいで、自分の人生はメチャクチャだ』と心の中でつぶやくばかりで、継母との関係をよくするための行動を何もしていなかった!」
そう思ったのです。
読んだ本の中に、次のような言葉が書いてあったそうです。
「よい人間関係を築くには、感謝の言葉を伝えよう。
相手からの見返りをいっさい期待せず、ひたすら感謝を行動で表そう」
そこで、継母に感謝できることを探したら、たくさん出てきたそうです。
・毎日、ご飯を作ってくれている
・おねしょした布団を干していてくれる
・病気になったときは病院に付き添って行ってくれた
などなど
「私は、継母のイジワルなところばかりに固執していたけど、
私がここまで育ってこれたのは、継母のおかげだ。
私は、継母が家に来たころから、
亡くなった母親と比べて、継母の悪い点ばかり数えていた。
私こそ、最初から継母を『お母さん』として認めていなかった。
よし、まずは感謝の気持ちを表そう!」
あきちゃんは、そう決意しました。
仕事の関係でお父さんの帰りが遅いので、
夕食はいつも、お母さんと二人きりで食べていました。
その日の夕食を終えると、
「お母さん、おいしいご飯をありがとう。いつもありがとう。」と言って、母親の背に回りました。
肩こり症のお母さんの肩をもんであげようとしたのです。
するとお母さんが、「何するの、気持ち悪い。あなたに触られたら、よけい肩がこるよ。」と言って、あきちゃんの手を振り払ったのです。
あきちゃんは、次の日も夕食後に、「お母さん、ありがとう。」と言って肩をももうとしました。
すると今度は、お母さんの肘でっぽうが飛んできました。
あきちゃんは、3日目も夕食後に「いつもありがとう」と言って、お母さんの背に回りました。
「何の魂胆があるの?気持ち悪いからやめなさい」と、やはり肘でっぽうが飛んでました。
あきちゃんは4日目も、5日目も、6日目も続けました。
毎回、肘でっぽうで拒否されました。
「相手からの見返りを期待せず、
ひたすら感謝を行動で表そう」という言葉が、あきちゃんの支えでした。
そして7日目。いつものように夕食後、
「お母さん、いつもありがとう」と言ってお母さんの背に回ったら、
その日はお母さんがじっとしていました。
そこで心を込めて肩をもんでいたら、
しばらくして、お母さんの肩が小きざみに震え始めたのです。
どうしたんだろう?と思って、お母さんの顔をのぞきこんでみたら、
お母さんの目から大粒の涙がポタポタと落ち始めました。
まもなくお母さんは「ウワーッ」と泣きながらあきちゃんに向かって、こう言ったのです。
「ごめんなさい!お母さんが悪かった!ほんとにごめんなさい!」
お母さんは、しばらく泣き続けた後、
あきちゃんのことをギュッと抱きしめてくれたそうです。
その日から、お母さんはイジワルをしなくなりました。
優しいお母さんに変わったのです。
そしてその日から、あきちゃんがおねしょをすることもなくなりました。
以上です。
イジワルに見えるお母さんの奥には、愛に満ちた優しいお母さんがいたのですね。
このあきちゃんさんのように、肘でっぽうを喰らっても感謝の行動を取り続けるためには、「人間は本来、愛に満ちた素晴らしい存在だ!」という“ものの見方”が必要です。
いわゆる“性善説”ですね。
「今はイジワルをするお母さんでも、
お母さんの本質は、愛に満ちているんだ!」という信念を持って接し続ければ、
いずれはお母さんの“愛”を引き出すことができるのですね。
逆に、「このお母さんは、心底イジワルだ。どうしようもない。」
という信念をもって接すればどうでしょうか?
私たちが相手に対して、どんな“ものの見方”をするかということは、
相手との関係に大きな影響を与えるのです。
相手の中の「愛」や「優しさ」や「本質」を信じ続けることができたら、
つまり、“性善説”で相手を見ることをし続けたら、
相手の愛や優しさを引き出すことができるのです。
さて、このあきちゃんさんの話には、もう一つ大事なポイントがあると思います。
それは、「相手からの見返りを期待せずに、感謝を行動で表す」ということです。
もしあきちゃんさんが、お母さんからの見返りを期待していたら、
肘でっぽうをしてくるお母さんを受け入れることはできなかったと思います。
相手からの見返りを目的にするのではなく、
・相手を喜ばせること
・相手に感謝の気持ちを伝えること
を目的にしてこそ、行動し続けることができ、
ついには、相手の愛を引き出すことができるのです。
ここで大切なのは、善悪の判断をしないことです。
「私は、『感謝の言葉を伝える』という“善いこと”をしているのに、
相手は肘でっぽうを返してくるなんて!
どう考えても相手が悪い!」などと、善悪の判断をし始めると、
常に相手を裁くようになってしまいます。
「善いか悪いか」「正しいか間違っているか」の二元論で物事を考え始めると、
自分が正しくて相手が間違っているように思えてきます。
そして、人の判断基準はそれぞれに違いますから、皆が「自分が正しい」と信じるようになり、「正しさ」と「正しさ」の戦いが始まるのです。
ですから、善悪二元論という“ものの見方”をしていることに、
まず気づく必要があります。
エデンの楽園に住んでいたアダムとイブが、
なぜ楽園にいることができなくなったか、ご存知でしょう。
蛇にそそのかされ「善悪の知識の木」の実を食べてしまったからですね。
以前、「鏡の法則」を読んだ友人から、次のような質問をされたことがあります。
「人生が、自分の心を映し出した鏡だというのはわかる。
だけど、すごく心が清く正しいのに、ツキのない人生を歩んでいる人がいるのはなぜ?
清く正しい心の持ち主なら、もっと豊かな素晴らしい人生を送ってもいいと思うんだけど。」
清く正しい心の持ち主にもいろいろなタイプがあるとは思いますが、
「自分が清く正しいがゆえに、人の悪が許せない」というタイプの人がいますね。
正義感が強すぎて、悪を憎み、悪に対して怒っている人です。
心の底で人を裁いていると、自分が裁かれるような人生になってしまうんですね。
私たちは、「善悪の知識の木」の実を、一度吐き出す必要がありそうです。
・善いか悪いか
・白か黒か
という二元論ではなく、多様性を受け入れるだけの“ファジーさ(曖昧さ)”が大切です。
さて、もう一つあきちゃんさんに関連して、おねしょの話です。
おねしょの原因もいろいろあるとは思いますが、
悲しみを我慢していることが、おねしょの原因になることがあります。
本来、悲しい時は、思いっきり泣くのが一番です。
涙がかれるまで泣くと、少し楽になることが多いはずです。
しかし、あきちゃんさんのように中学生になると、泣くのを我慢するようになります。
あるいはあきちゃんさんは、小さいころから泣くのを我慢していたのかもしれません。
すると、涙で悲しみを洗い流す代わりに、おねしょとなって流れ出ることがあるのです。
つまり、おねしょによって悲しみを流そうとしているのですね。
ですから、子どもが心の底から安心できたり、子どもの悲しみが癒されたりしたことで、
その子のおねしょが治ったという例は、枚挙にいとまがありません。
<転載終了>
家族の間で、憎しみ合うことは、非常に多いそうです。
親子や家族の間なら、甘えが許されると勘違いし、
相手に対し、自分の未熟な幼児性を振りかざすからです。
ですが、家族というのは、神様が私たちの魂を輝かせるために準備してくださった
一番身近で、最小の単位です。
家族を通じ、魂を磨き、輝かすことができます。
近すぎる関係ゆえに、時には憎しみ合うこともあるかもしれません。
ですが、憎しみの心が、私たちの中にある限り自分を含め、誰も幸せにできません。
・憎しみ合うのはやめましょう
・好きになりましょう
そう言っても無理かもしれません。
ですが、あきちゃんがやったように感謝の種を見つけることならできるかもしれません。
・毎日、ご飯を作ってくれている
・おねしょした布団を干していてくれる
・病気になったときは病院に付き添って行ってくれた
私たちは、「感謝の心」さえ、芽生えれば、幸せになれます。
神さまの恩寵が、これでもかと降り注がれます。
幸せになるには、今置かれた環境の中で、小さな小さな「感謝の種」を見つけることが
スタートとなるかもしれません。