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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。
711 2022.07.03
総務部長であった時、中学3年の学年通信の巻頭言に「山よ、来い!」というタイトルの文章を書きました。以下がその文章です。
たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。
マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。
町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。
マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。
二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。
マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。
「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」
そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。
私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業されたそうです)は、この話を取り上げて言われました。
「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな」
さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。
『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。
『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。
そんな時どうしますか。
『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山人形?)に釘をガンガン打ち付けますか。
もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。
『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。
「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。
『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。
どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。
710 2022.07.02
大乗仏教の悟りは、「ひとついのちの自覚」です。すべての人や動植物や山や川(「万類」と呼んでおきましょう)が、実はみんな「私」だったんだと悟るのです。
そして、大乗仏教の学び(修行)とは、その「ひとついのちの悟り」を、地上に現実化してゆく過程のことです。
この世に一人でも、万類がひとつでも苦悩したり、正常でない状態になっていたら、「私」は、まだ本当の「ひとついのちの悟り」を得ていないのです。
ですから、地上の万類がしあわせになるまで、私は何度でも地上世界に戻ってきて、私の車にすべての人や存在(万類)を収容して平和と融合の世界へと運びます、という誓いを立てるのです。
そんな誓いを立てた方が「大乗菩薩(ぼさつ)」です。万類を全員収容して運ぶのですから、「大きな乗物」でなければなりませんね。だから「大乗」なのです。
以下は、宮沢賢治さんの言葉です。この文章に大乗仏教のエッセンスが詰まっています。
○ 世界がぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
○ 新たな時代は、世界が「一の意識になり、生物となる」方向にある。
(「農民芸術概論綱要」より)
709 2022.07.01
僕が僕で あることが 世界の根っこだ
ブッダも イエスも その根っこから
生え出した 花であり 実なのだ
706 2022.06.28 ~708 2022.06.30
道元さんは「妙法蓮華経」をお経の王様とおっしゃって大切にされました。そして、なくなられる時も、法華経の一節(如来神力品)を称えながらなくなられました。
この「妙法蓮華経」のエッセンスは、このお経の経題に示されています。
私たちひとりひとりは、大宇宙に咲いた「イノチの花々」です。
一つとして同じ「イノチの花」はない、別々の個性を持った花々なのです。
そして、それぞれが代われるものがない、唯一絶対の美しさを持つ存在です。
これが「妙法」です。「妙」は美しいと言う意味、「法」は個々のイノチのことをいいます。
それらの花々は別々に見えますが、実は蓮華なのです。
つまり、連なる花々なのです。
「蓮」という漢字はクサカンムリ(植物をあらわす)と「連」から構成されていますね。
つまり、これらの宇宙に咲いたイノチの花々は、連結した、ひとついのちとしてつながった花々なのです。
蓮の花が水面にたくさん咲いています。
別々のところで咲いているので、別々のイノチのように見えます。しかし、実はそうではなくて、水面下には茎が伸びていて、それらの茎は、みんな水底のひとつの蓮根とつながっている「ひとついのち」なのです。
そのように、大宇宙に咲き出した、それぞれの個性で美しく輝く花々も、実は「ひとついのち」の根っこから伸びて生まれ、今もなお、その根っこから養分をもらって咲きほっているわけです。
このように、「妙法蓮華経」とは、「ひとついのち」から現れて、「ひとつのいのち」として生き、やがて成長、進化をとげて、「ひとついのち」に合流、融合してゆく、そんなイノチの真の姿を、ドラマで、たとえ話で示そうと試みているお経なのです。
705 2022.06.26
すべてのイノチは、より大きくなろう、より高く伸びようという根本衝動のベクトルを持っていて、その矢印の方向に進んでいます。
その歩みの軌道は別々で違っているように見えますが、実はすべてのイノチの歩みは同一点に集まりつつあるのです。
そして、時を経て、必ず「ひとついのち」に合流、融合する時が来ます。
私たちはもともと「ひとついのち」だったのですが、進化への衝動の要求に従って、個々のイノチに分かれて現れてきたのです。
個々のイノチが徐々に成長し、より大きくなって、ついに再び「ひとついのち」に帰ってゆくのです。出発点より一層進化した「ひとついのち」として…。