再録 ある道のり16~新しい扉を探し求めて 2~

「高度情報化社会」とはほぼ25年後の現在のことです。
ユビキタス社会ともいい、あらゆるところに神は遍満するという意味。
将来このような社会が来るので、その時のために「心のネットワーク」を
世界中に構築しようという遠大な構想がありました。

まだ当時は「儲かることには一歩前に出るが、損することには
一歩下がる」という一般的な社会風潮があり、そんな社会でなく
人々にとって有用な情報を共有し、心でつながろうと呼び掛けていました。

一か月に2度ほど、大阪や東京へ出かけ、
本当の世界情勢を学びました。 
戦後のアメリカやヨーロッパと日本との真の情報も知りました。
取り扱うものは「情報」であり「もう物を売ってはならない」の
志向にぴったりでした。

そして研修後、この指とまれ式の卒業研修旅行が一つの
グループで企画されました。
「イスラエル」か「ボリビヤ」かの選択から、
「ボリビア」と決まりました。

ボリビヤと言えば知花先生です。
知花先生は若い時にボリビヤに行かれ、
修行し、ボリビヤの農業発展に貢献されました。
もちろん無農薬です。

清里にある「やすらぎの里」にグループの
方たちと出向き、瞑想をし講演をお聞きしました。
そしてボリビヤへの橋渡しを依頼したのです。
知花先生は快諾され、横浜にある弟さんの旅行社を
ご紹介いただきました。

後日打ち合わせのために、初めて横浜の旅行社を
訪問します。

その日が飯島さんとの出会いの日となりました。
まだ30代の若き日の飯島さんは、初対面で
とても不思議な雰囲気をお持ちでした。
なんだか気配を感じないのです。

ボリビアでは知花先生、飯島さん、そして知花先生の弟さんに
多くのお世話をいただきました。
お二人には講演もお願いできました。
知花先生はいつも通り「霊肉一体何故」が基調で、
聞きなれた口調でのお話です。

ところが飯島さんのお話はとても単純ですが、
まったくこちらの理解を超えていました。
今思えば基本がわかっていない自分がいました。

グループは未来に向けて「心のネットワーク」を
構築するためにネットワークコンピュターの開発を進め、
それが完成した暁には飯島さんに進呈するという目録を
贈呈しました。期限は5年です。

帰国後グループの仲間の女性が、飯島さんのお話に
感銘され、名古屋で幾度か講演会を企画しました。
こちらはまるで理解できていないのですから興味なく、
一度の参加にとどまりました。

ボリビア研修旅行から5年の月日が流れようとしていました。
お約束のコンピューターは完成せず、それどころかグループの
元の組織も崩壊寸前です。

グループの幾人かと相談し、飯島さんに普通のコンピューターを
購入いただくように、お金を贈呈することにしたのです。
埼玉の飯島さんにお電話しますと、あいにくボリビア。
奥様から来週には戻りますので、電話させますとのこと。

そして後お電話いただきました。

「お金をいただくのに、こちらに来ていただくなんてとんでもない、
こちらから名古屋に出向きます。」とのお返事を受けて、
グループの方たちに集まっていただき名古屋でお話も
していただくことにしました。

20万円の贈呈をさせていただきました。
お話は「現象の原点」という題名がぴったりの内容です。
5年の月日が少し進んだ理解を生みました。

埼玉に戻られた翌々日に大きくて思い荷物が
名古屋に届きました。
中にはボリビアで見た「マナウオーター」の開発製品が
10台も入っいたのです。
20万円の倍はする製品です。

「与えて与えて与え尽くす」 実践者にお会いし、心を打たれました。

お礼の電話をしますと
「だいたい今までは約束しても守らない人ばかりだったのに、
5年も忘れないでいてくださって、約束を果たす人たちなんて
いないよ。」と逆に励まされました。

それから飯島さんとの本格的な交流が始まりました。
テネモス(私たちは持っているという意味のスペイン語)的な
考え方を伝えたい。
強い思いが湧いてきていました。

水、空気、微生物、農業そして電気。
これからの時代に必ず大切になるだろう考え方。
少しでも多くの方々に広めたい。

幾度も、多くの方々を埼玉にお連れいたしました。

10年後の2011年大きな地震が東北地方に発生。
それまでのテネモスさんはあまり理解されず、
長く不遇な状況を余儀なくされました。

震災があってからは飯島さんの考え方が大きな反響を
呼び、実践や講演に多忙を極めています。
本も幾冊も出版され、さらに多くの方々が理解を
深めていくチャンスが訪れたのです。

そしておそらく時期が来ればと温めていたであろう、
数々の商品製品群が続々と生まれ、多くの方々の
福音となっています。

2016年3月1日埼玉からお電話。
「飯島さんが今日2時23分に亡くなりました。」

その時口について出た言葉
「飯島さん、急いでいたからなあ。」

大腿骨骨折、糖尿病による透析。
数々の試練をものともせずに、最後まで命がけで多くの方々に
語りかけた飯島さんでした。

深いご縁に導かれ今生でお会いできたことに
どんなに感謝してもしきれません。

3年後の2019年11月「お相手の意識圧を上げること」が
仕事になりました。

第三創業の期の訪れです。

その顛末を過去、「飯島さんありがとう」というお知らせで
詳しく書かせていただいてます。
すこし重複しますが、よろしかったらお読みください。

「飯島さんありがとう」

平成7年、横浜のアンデスインターナショナルという
旅行社で始めて飯島さんにお会いしました。

この旅行者は飯島さんとご縁の深い知花敏彦さんの
弟さんの経営する会社でした。
およそ20名の人たちでボリビアに研修旅行するための
打ち合わせに、その頃ボリビアと日本を行ったり来たり
してみえた飯島さんに、ボリビアでのご案内をお願いするための
初顔合わせに出向いたのでした。

事務所に音もなく入ってみえた飯島さんに、
人としての気配が感じられずに、心なしか驚いている
自分がいました。

当然に飯島さんは30代、とてもお元気で、農業の実践研究者という
感じがいたしました。人柄は透明感のある寡黙で素敵な人
という印象を持ちました。

20名の旅行が何の目的で行われたのか。
それはその頃所属したある団体での卒業海外研修旅行でした。
ある程度の量のカリキュラムを終えた人たちが自主的に
自分達だけで行き先を決定します。
そして相手の国の方たちや、相手の国で活躍する日本人の方たちと
交流をし、将来共に心の繋がったネットワークを構築することが目的でした。
私達はイスラエルかボリビアのどちらかを参加者の
中での投票によって決めました。
ボリビアに決まりました。

ボリビアといえば若い頃からボリビアとご縁の深い
知花敏彦先生です。
まず知花先生にボリビアとの関わりのご紹介を
頼もうと、先生の住まいされる長野県の清里に
うかがいました。

日本各地から卒業生が15名ほど集まりました。
その清里で、知花先生は朝晩の二回、一時間の瞑想後
一時間の講演を長い間継続されてみえました。

何も精神的に気高くもない私達ですが、先生はボリビアとの
橋渡しを快くお引き受けくださいました。
そして、かの横浜のアンデスインターナショナルをご紹介いただきました。
そこで飯島さんとの初の出会いがあったのです。

ボリビアでは飯島さんがその頃農業指導をされていたサンタクルスという
都市や標高4000メートルの首都ラパスなどでの視察を行いました。
知花先生や弟さんそして飯島さんに大変にお世話になりました。

農業では完全発酵堆肥作りの現場や、広大な農地や酪農地、
日本人のシスターが運営する孤児院の訪問そして
沖縄からの移住者の方々との懇親もありました。
また知花先生や飯島さんの講演もいただきました。
飯島さんのお話は、面目ないことですがほとんど?でした。
ボリビア在住の知花先生のご長男の新居やその頃
開発中でもうすぐできると言われたマナウオーターの
初期の水も体験できました。

観光ももちろんありました。
そして今回のネットワーク構築のハイライトが、私達の団体が
目指すネットワークコンピューターの目録を贈呈することでした。
まだいまのようなインターネットがない時代のことです。

知り合った人たちのご縁の心の繋がったネットワークの
道具としてのネットワークコンピューターを開発し、完成した暁には、
それを贈呈すると言う目録を飯島さんにお渡ししました。
5年後までには完成すると言うふれこみでした。

ボリビアでのお別れの日、卒業生の一人が進呈した
三年物のたまりの小瓶を、胸に抱え嬉しそうにたたずむ
飯島さんのお姿が今も脳裏に浮かびます。

そのボリビア旅行が無事に終了したあと、卒業生の
お一人の女性が飯島さんを名古屋にお迎えし幾度か
お話会を開催したようでした。
一度だけその集いに伺いました。

そのときはまだ初心者の私達に、わかりやすく日本昔話を
引き合いに、真理をそれとなくお話する飯島さんでした。
それでも何をおっしゃりたいのかまるで理解不能のこちらの石頭でした。
ただお話は大変に興味深く、いつも眠くなるのにまったく
眠くなかったことを覚えています。

それから5年の月日が流れました。
私達の団体は「心のネットワーク」からいつしか
「お金のネットワーク」に変化してしまっていました。
私はその団体をすでに離れていました。
しかしあのボリビアでの約束は鮮明に覚えていて、
約束を果たさなければと思いながら、ネットワークコンピューターが
完成せずにいて、どうするか迷っていました。
「お金をお渡しして必要なコンピューターを買っていただこう。」と
思いました。

お電話を差し上げた住居の新井宿には飯島さんはみえず、
ボリビア滞在中でした。
奥様の、もうすぐ戻るので電話をさせますという
お返事で、しばらくの日を待ちました。

その後幾日かたって、電話がありました。
電話で約束を果たせないことをお詫びしました。
そして申し訳ないですが、パソコンを購入してくださいと
お願いし新井宿へ現金を持参しますとお伝えしました。
飯島さんは言いました。
「お金をいただくのに来ていただくのは、申し訳ないです。
こちらから伺います。」と言われました。

わずかなパソコンのお金を贈らせていただくのに、
埼玉から交通費をかけて来て頂くなんて、申し訳ないと感じました。
そしてなんと積極的な方なんだろうとも感じさせていただきました。

5年ぶりに、呼びかけに応じて集まった人たちの前で
質疑応答形式の講演がありました。
やっぱりまだわかりませんでした。
ただそのお人柄と、その積極性にまず心打たれました。
5年を経て無事に贈呈式ができてほっとしていました。

その日から二日後、10台ほどのマナウオーターが送られてきました。
贈呈した金額の何倍もの金額になるのでしょう。
常識を超えた飯島さんの行動に、驚きと共に
自分の小ささを知りました。

いただいたマナウオーターは講演に来ていただいた
参加者の方々に無償で提供させていただきました。
それから空気活性機の周知やマナウオーターの拡散が
喜びの仕事になっていきました。
しかし飯島さんにとってその後長く深い活躍できない時間が
流れました。

そして平成23年、日本を揺るがす大震災が起きました。
震災の翌日すぐに電話がありました。
「仙台の人っていたよね。連絡先教えてくれる。?」
それで仙台の友人の連絡先を伝えました。
それから何十台もの簡易空気活性機が東北方面に
無償で送られたようです。

この震災から以後、飯島さんの真理伝達の速度は加速しました。
そしてたくさんの品物や機器が開発されました。
その物群はまるで時節を待っていたかのように現実に
出てきました。

言葉だけでなく、ものの現象でもって真理法則を理解できます。
意識は最大の変化を生みますが、ものでも誰がやっても
おどろくべき結果を生みます。

飯島さんは新井宿の今の「テネモスランド」をずっと思い描いていました。
そして「思ったとおりになる。」 法則を体現しました。

3月1日にテネモスさんからお電話をいただきました。
「飯島さんが今日の午後2時23分になくなりました。」

体から離れた運転者は今頃どのあたりでしょう。
まだ遣り残したことがあったかもしれないけれど、
あとは現実に今体を持っている人たちに託されたのでしょう。

今思えば、その団体へ参加するきっかけとなった講演会が
あるという日まで、いままで経験したことがないような
ワクワクした気持ちがずっと続いていました。
その団体は霧散してしまいましたが、その団体のおかげで
ご縁ができた飯島さんとその後22年間もご縁をいただいて、
こうして今もワクワクする気持ちで毎日が送れています。
結局そのワクワク感のわけは、飯島さんとの今生での
出会いだったのだと、今の確信です。

「人に付くのでなくて、真理を生きなさい。」
飯島さんの声が聞こえる気がします。
飯島さん、ありがとう。

またお会いできるでしょうか。?
もしできたら、恥ずかしがらずにハグしようね。