事業のゆくえ R4 3/24

第23講「卒業後の指導」

第24講「出処進退」

8月を除いて毎月第3日曜日の午前6時に
「慈藹塾読書会」が山善ビルの二階で開催されます。

読本は哲学者森信三先生による「修身教授録」。
朝まだ雑踏がおとずれない時刻に、参加者の
方々のそれぞれのお声が会場に響きます。
輪読。

一つの講を読み終えた後、互いに指名しあって
感想を述べあい、一日に二講が進みます。

令和4年3月20日のその朝に、二つの講の
感想にあてて二人の社員さんのことが口から
話されていました。

お一人は今年の1月に現役のまま亡くなった年齢
72才のMさんのこと。

「あの主人が亡くなりました。
大変お世話になりました。」

二度目の結婚の奥様からのお電話が1月の末に
携帯電話にありました。
この2年間病気がちで、会社を幾度も短期のお休み
を繰り返してみえたのですが、今回が最後の入院となったようす。

現役での社員さんとのお別れはこれで二度目だと
思わず心が自分に話していました。

飯島さんと始めて山善でお会いした日。
すれ違っただけで飯島さんがあとでMさんのことを
「あの人だったらできるから・・」とつぶやいていました。

最後の入院の前
「お医者さんに。もう社会復帰は
無理だからと言われました。だから今年の末で
退職したいです」と連絡を受けていました。

「ただフリーモーターだけは作りたかったです・・・」

電話口から絞り出した無念の声は12月のこと。
それから一か月少しで肉体を脱ぐなんて。

このMさんとのご縁を読書会で語っていました。

「山善での採用の基準は、面接の早い順です。
どんなかたでも採用です。それですぐに明日からでもと
社員さんになられる方にお話ししますと、たいていは
翌日からみえます。

幾人かは後にやめて行かれますが、今までで
最短の方は半日です。
午前中みえて、近所の方なので昼食をとりに
自宅に戻られてそのまま出社されなかった。
おそらくカラー鉄板のあまりの重さにビックリだったのでしょう。

ただお昼に家に向かわれる前に、ご自分の同僚だった人で
いい人がいるから面接に来てもらってもいいですか?」と。

そしてその午後に面接にみえた方がMさんでした。

昭和55年9月10日の出来事でした。
以来その中川区の旧本社で38年そして
中村区に本社を移動して4年の月日が流れました。

お人とのご縁の深さを思う時、どんな方とも
深いご縁があって一緒に居られる間ずっと
教えていただいているのだと思うのです。

「人生いたるところに青山あり」

さらにもうお一人は、昨夜の23日送別会をした
主人公の80才の現役青年Aさんです。

まだ柳橋の東南角にガーデンビルがあったころ
その地下のちゃんこ鍋やさんで、そのAさんと
密談をしました。

「新しい山善で一緒にやってください」

「いいですよ。そのかわり死ぬまで一緒ですよ」

今から44年前の昭和57年のことでした。

お話は山善の創業のことに飛びます。
義父の父山田善兵衛さんは大正時代に南米や
北米のフロリダで働いて、お金を稼ぎ日本へ帰国。
帰国後建築関連の事業が有望という事で、釘や針金
そして亜鉛鉄板などの小売店を営みました。

雨の多いこの国では雨といが必要です。
戦後その雨といをかける仕事は建築板金屋さんの
お仕事になりました。
さらに建築ブームによって屋根や壁にカラーの
亜鉛鉄板の需要が伸びてきました。

その建築板金店さんに材料を販売する会社に
「山善商店」は事業の方向を変えていきました。
多くの同業者も出現してきました。

大先輩のAさんはこの「山善商店」に入社して
途中「山善株式会社」と社名変更されましたが、
始めてお会いした時には入社後13年がたっていました。

わけあって土木会社から名古屋で働いていた自分は
山善ではまだ三年生。

その様な頃に会社は経営者どうしの係争中と
なっていました。善兵衛さん亡き後奥様が社長に
指名したのが経営センス抜群のTさんでした。
そのTさんが社名変更を強行しようとして
「営業譲渡」に関して本家の義父との係争となったのです。

「本家だけど、出ましょう。
新しい会社を作って山田風の会社にしましょう。」

係争は避け示談で株式の譲渡となりました。

そして新会社設立に向かいます。
29才。

大切なことはもちろん人です。
義父はもともと会計畑。
心にはすでにAさんともう一人Sさんがありました。
Sさんは同じ町内ですので二つ返事です。

Aさんは営業でもトップの成績の達人です。

「これがうまくいかなければ・・・」
ドキドキでした。

そしてちゃんこ鍋屋さんでの密談となるのです。

Aさんはお話がありますと、こちらから連絡を取っていた日から
もう決意してみえたようでした。

「死ぬまで一緒ですよ!」

何度思い出しても涙がにじむその時の情景です。

その後中川区で40年中村区に移って4年目。
送別会はAさんと共に歩んだ44年の数々の
思い出を語らせました。

実は昨年の暮れに近くなったころAさんから
そろそろ退職したい旨のお申し出がありました。
その時の答え「死ぬまで一緒と言ったのはAさんですよ!」

年齢とコロナゆえか成績が上がらず
責任感が強いAさんらしく身を引くおつもりだったようです。

それでも一旦は決意を翻し、お正月に80才を
迎えられたAさんはあらためて3月での退役を
お申し出なさったのでした。

これ以上は拷問。
そう思って同意しました。

Aさんはゴルフはシングル。
教えたのはこちらでしたが
一瞬の並ぶ間もなく抜き去られました。
ボーリングもプロ級。
学生時代はウエイトリフティングの選手。
そして今でもまだ60代を思わせるすばやい動きです。

Aさんにいっぱいいっぱい教わりました。

会社に定年はなく、仕事への意欲が
なくなるときが定年とさせていただいたのも
Aさんと一緒だったからです。

ありがとうございました。

事業は30年続けることは大変です。
まして100年企業はもっと大変ですが、日本では3万3000社を
数えますし、200年企業も、もちろん世界一で3000社を
超えます。二位がドイツで837社ですから日本は飛びぬけています。

社会に有用な事業を継続経営できるか。
経営者はとても孤独です。

いま思いましたら、善兵衛さんから始まった山善は
100年企業となっていました。

事業の内容は、釘、針金、番線、トタンの金物店さんへの
販売から建築板金店さんへの販売に移行、さらに加えて建築板金工事の
施工へと変遷し、現在は販売や工事自体も消滅し健康や環境に関わる
情報と品物のご提供に変化してきています。

そして板金店さんや同業だった小売店も半数になりました。

実は今がとても幸せです。
自分にだけはウソがつけないですから、
そのようにしてきた自分へのご褒美が今と
感じます。

同志諸氏とのご縁、すべてのご縁に感謝を申し上げます。