随想 伊路波村から65~古代からのささやき

2006年6月6日以来 時計が止まってしまったかのような時間をすごした気がする。

この7年の間にしかし 世の中は物凄い変化をしている。

恐慌とも呼べるような今という時間にも 次々とたくさんのご縁をいただいた。昨日は 三重県で牧場を営む Mさんのメールに共通する意識を感じさせていただいた。

マナ・ウオーターを水道に着けて以来、毎日の洗濯が、愉しい日課となりました。子どもの頃には、台所はみがき砂、風呂や洗濯は固形石鹸でしたが、それでも、「水だけ」ということはなく、六十歳になって初めて「水だけ」の体験をしたのですから、それはそれは愉しいのです。

正確に言えば、それは愉しいというだけではなく、「嬉しい」のです。
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テネモスミーティング名古屋 3/21 ご報告 1

最初に長野県飯田市のSさんからみなさんへの
プレゼントをご紹介した。

飯島秀行講演会 「自然法則と宇宙エネルギー」その1その2が13枚
知花敏彦 「中心とは何か」が4枚

以上のCDがありますので、ご希望の方には
無料にて送らせていただきますので、
お送り先をお知らせください。
masataka89@iroha.ws まで。
あと名古屋のIさんからも故竹田和平さんのCDや本を
無償提供いただきました。

それと参加者の皆様にバイオミネラルベースの
「ヒナモロコ」という基本的には洗剤ですが
強アルカリ(PH11)の自然由来の液体の
5倍希釈液を贈呈させていただきました。

ミネラルなのでマスクの外側に吹き付けて
使用します。毎日吹き付けますとコロナウイルスを
回避できる環境ができます。
プラス マスクが何度も使えます。

釘本さん:イスラエルは水を大切にしている。
ユダヤ人は日本人に似ている。
お風呂の跡があって、とても似ている。
聖書の預言は絶対。
メシアの出現の日お手伝いできるように
毎日お風呂に入っていた。

ローマ帝国の支配。
水道がすごい。
金沢の前田家の神社に似たような水道があった。

砂漠なので水を集めて暮らす。

イスラエルの旅では、心の底から愛を知るためにやってきたと
思えた。

「愛がゆく」まっちゃんは飲んだくれだ。
宇宙からの子供を育てる物語。
未来から送られた子供。
未来は家族の概念がない。マザーから人は生まれる。
心の痛みがない。愛情をもって育てたら
ものすごい愛の子になった。

二極化が進んでいてそれでも「愛の時代」が来ている。

ユーチューブ。肉食が草食を襲う。
でもかわいいバンビとか見たときに襲わない。
そういう場面のみ集めたユーチューブがある。

最初に「可愛いい」と思われる赤ちゃんは幸いで
「可愛いい」と思われない赤ちゃんはかわいそう。

飯島さんのことで最近気が付いた。
「ただ認めること」 「自由意志を出していくこと」

新橋にあるフレンチ割烹に、テネモスでうどんバルを
以前開業された田中孝一さんに連れて行っていただいた。
料飲店の経営を手伝うオーナーさんにお会いした。
テネモスのバンブーなどを使用してどのように
したらよいかの相談だった。

やってみるしかないと助言。

ドミニクコルビというフレンチ割烹のお店。
カウンター内外のみであと2テーブル。
せまいお店。入った瞬間いい感じ。
コンクリートの窓際でも気持ちがいい。

生体エネルギー仕様で床壁の施工がしてある。

あたたかい雰囲気。
シェフはとても偉い人。
フランスのツールダルジャンという400年続く
お店から派遣されたホテルニューオータニの料理長だった方。

国外で唯一の支店。
ニューオータニに選ばれて来て総料理長を25年務めた方。
おちゃめで温かい方。

簡単コース7000円で3品料理。
お飲み物付き。
ミシェランで三ツ星とれる。
料理を食べてもらって幸せになってもらいたいから
料理を提供している。

人が幸せになるために○○がしたい。
○○を見つけることができた人が天職を見つけた人。
改めてそう確信できた。

山田:名古屋にツゥラ・ジョアというお店がある。
普通の家庭をレストランにしている。
昼一席。夜一席のみ。

オーナーが自ら料理し、一度行かないと予約ができない。
最初は誰かの紹介しか行けない。
一度行ったらその人には同じ料理は二度と出さない。
ただひとつMのサラダというサラダのみは毎回同じ。

毎年12月の半ばから翌年の1月いっぱいは
買い付けと学びの為世界各国を旅するため休業。

12月1日午前9時からその日のうちの電話予約で
一年分の予約が埋まる。運がないと予約は取れない。
あとはキャンセル待ちで日にちは選べなくなる。

超有名な人たちが訪れているが、いっさい宣伝なし。
ご紹介のみの店。
11時30分開始の昼食では店の前で11時から
お店のどなたかがお客様をお待ちする。
オーナーが待っているときもある。
すでにおもてなしが始まっている。

世の中にはとてもすごい方がみえる。

釘本さん:自分のことを知ってもらうための身の上話から
コラボしていいものができてくる。
毎日が感動の連続。
ご縁の人生。
動いたら出会いがある。
超一流の人と会える。

信頼がほしい。人の心と共振できる幸せ。
飯島さんには「人の心が読めるか」といわれていた。
超一流の人を見つけるのが案外うまい。
見つけることができる方法に興味。
超一流の人のタイミング、所作を見ると勉強になるし、
それを見つける見方ができる自分っていいと思う。

飯島さんの思考回路を見せてもらったことがすごく嬉しい。

春の朝

村長のつぶやきといっても、村長も村役場の
職員も一人ですが。

春の朝、掃き掃除中になんだか目から涙が
ちょろちょろ出てきました。

一か月間,お客様の減った一階の喫茶店に
行きました。

一応の限を今週でつけようと思いながら
毎朝のようにお会いして仲良くなった
女性陣との会話中も涙がすこしずつ目から
出てきました。

フェイスブックはとても時間を取られて
気がそぞろになりますので、
すべて遮断させていただきました。

そしたらいっぱいやることが沸いてきて
幸せな毎日となりました。

こちらは続けているツイッターで釘本さんのアメブロがあって
クリックしました。

あたりまえの世界

飯島さんの「明日まで待って」に大笑いして。

らいぶゆうの真摯な記事に
また涙が溢れました。

今朝は目が海のような日です。

真理の光~その1  すべては光

平成5年ですから、今から27年前の11月、
広島のお寺にいました。
そこですでに故人となられたKさんの小太鼓の
響きにふれました。
そのときのKさんのお写真です。

川野政次さん.jpg
広島の方々に大変にお世話になりました。
実はその日は仙台からも大阪や名古屋からも
たくさんの方々が集まりました。
今年三月からのものすごいスピードでの出来事が
コレまで生かされてきて不明だったことへの
理解を深めてくれました。
「すべては光」
その日お寺の和尚さんからお聞きしたこの言葉はなんとなく理解しながらも不明でした。
光がすべてなら、元である神様も光、そしてその子でもある
人間も光、そして万物もまた光ですので、すべてがひとつであるのに
異ならないのです。
もしそのときの体験記事をお読みになりたい方は
こちらからどうぞ

今年の3月3日岡山にいました。
テネモスのKさんからのお誘いで、震災から加速した
オフグリッド(送電線網に寄らない、すなわち自前の電気)の
電気で自宅をまかなっている方たちの家を訪問させて
いただきました。
ただそれだけだったら、そうかで終わっていました。
でもそれだけではありませんでした。
岡山市内でのお寺で、その日集った人々に加えて
新しい技術で自前の電気を確保しようとする提案が
ありました。
そこからさらなる旅が始まりました。
「すべては光」の真の理解への旅でした。
今朝のお日様です。

太陽今朝.JPG

そして今朝の冴えた月です。

月」「.JPG

日も月も晴れても雨でも曇ってもいつもあります。

先をゆくもの

未到の領野をゆくものは
地図もなければ 相談者もない
競争相手もないが 目標もない

あたりは茫々の広野であったり
峻立の山であったり
絶壁の谷であったりする

しかし何遍も攀(よ)じながら往復し
まず自分の通れるだけの小径をつけ
それを足がかりに誰でも通れる道をつくる

そして新たな所を開拓し
豊富な土地をつくって命名し
そのうえ誰にも赴く興味をひくように
馴染をもたせなければ
自分がひとり紛れこんだのでしかないからだ

先をゆくものは
ただ自らの磁石を方向としつつ
自らのいちに溢れくる生命力だけで進む

だからいつその中途でたおれても
彼は自分の到った地点を知っている

         内山 興正 師

真理の光~その2 物質は何故固まるのか

光と原子.jpg
上の図は、光は物質の糊と言った浜松ホトニクスの会長さんの
ビジョンの中にありました。 またご著書もあります。
詳しくはこちらで。
浜松ホトニクスのビジョン
浜松ホトニクスといえば世界的に有名な光電管の企業です。
カミオカンデでの小柴さんの発見に貢献した光電管の
制作会社で、影のノーベル賞といわれました。

この会社の会長さんである畫間輝夫さんは物質の基本単位である
原子は原子核の+と電子の-で構成されているので、そのままだと
自然の法則で+と-は引き合って0になってしまう。
それなのに原子の単位がたくさん集まって物質としてなりたっている
のはその間に光が介在しているからだと言いました。
そして物質として固まるのは、その光が糊のような役割を果たしていると。

この四月から名古屋にレゴランドができました。
このレゴは原子1ケのようなもの。
レゴは人が力を入れてはめますと、どのような形にもなります。
人が光のようなものです。

「すべては光」  この言葉の意味が少しはっきりとしてきました。

畫間会長さんのお名前は興味深いです。
ひるまてるお さんです。
まるでひかりの化身のようなお名前です。
この方に影響を与えた方が、この国のテレビジョンの発明者
高柳健次郎さんでした。

高柳さんは後の静岡大学の最初の学生さんでした。
ラジオが電波で送ることができるのならば、映像もできるはずと
学長さんの支えもあって研究を重ね、ついに「イ」という画像を
電送することに成功します。
戦前のことでした。

金属に光が当たると1ケの電子が飛び出ます。(光電効果)
それを真空管で幾度も反射させ、真空管の底部では一ケが
1000万ケにもなります。

光はーーーガンマ線ーエックス線ー紫外線-可視光線ー赤外線ー
遠赤外線ー電波ーーーーとなり。
可視光線は光のほんの一部であり、波長はガンマ線のほうが
短く振動数は大きいです。

ガンマ線とエックス線と紫外線の一部は地上までには届かないようです。
見える可視光線を主に使って電気を集めるのが太陽光パネルです。
でも光一ヶで電子一ヶが太陽光パネルなのです。

もし電子一ヶが1千万倍になって、電圧(電気のダム)をつくり
電流となって流すことができたらエネルギー問題は解決します。

この現象の世界のエネルギーと言われるものはすべての
すべてを生み出します。
水も食料もです。

それが地球上にまったく平等に太古の昔から降り注いでいます。
実は夜も昼も雨の日も雪の日もです。

光は電波であり磁波です。(電磁波)
見えるものだけが光ではないです。

見えない光こそ大きなエネルギー(振動)を有しています。

まさに光は天照大御神ともいえるようです。

随想 伊路波村から67~エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から

和歌山県の南端に大島がある。
その島の東には灯台がある。
石造りでは日本でいちばん古い。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。
今も断崖の上に立っている。

びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。

台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。

午後九時ごろ、
どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(逓信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」
灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。
このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。
あぶない! 灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、岩がにょきにょき出ている。

ぐぅぐぅわーん、ばりばり、ばりばりばり。

船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この爆発音を灯台守が聞いたのだった。
乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。

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一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。
「息子よ、起きなさい」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。
「お母さん」
という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。
「あそこに行けば、人がいるに違いない」
そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。
灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔から血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。
「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」
と感嘆した。
「あなたのお国はどこですか」
「・・・・・・」
言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
「この乗組員たちを救うには人手が要る」
傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。
「樫野の人たちに知らせよう」
灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。
灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。
この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。
村の男たちは泣いた。
遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。
「一人でも多く救ってあげたい」
しかし、大多数は動かなかった。
一人の男が叫ぶ。
「息があるぞ!」
だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。
自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」
「元気を出せ!」
「生きるんだ!」
村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。
船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエルトゥールル号である。
助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧しい生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。
このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。
「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう!」
一人の婦人が言う。
「にわとりが残っている」
「でも、これを食べてしまったら・・・・・」
「お天とうさまが、守ってくださるよ」
女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて、丁重に葬った。

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このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。
次のような後日物語がある。
イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセインが、
「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」
と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。
日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になっていた。
そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

 

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文・のぶひろ としもり
絵・ば ば  のりこ
(『生命の光 No.590』p.41-47より抜粋)